安らぎを待って草臥れていこう

 

これは昨日読んだ本。本屋で見かけて手に取り、最初の段落を読みこれは好みな気がすると詩歌を手に取るように読んだ。

 

レプリカたちの夜

レプリカたちの夜

 

 

ゆらぎまくる自我、ブツ切りのようではっきりしないシーンが連なる、混沌とか支離滅裂を愉快なかたちに折り畳んで焼いたパイのよう。舞台設定は夏で、隙あらば日差しの描写が差し挟まれる。夏に気を違えてしまう癖を持ったわたしが6月に読む本としてあまりに最適だった。とてもよかった。

 

 

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淡く甘い苦しみであればよかったのに、気づいてしまったら強い感情で吐きそうだ。わたしはわたしの矜恃で生きたい、醜い発想をしてしまったという自覚はある。君は君でしかない、誰かに重ねたりするのは土台おかしい話なのだ。

 

わたしには、特に2008-09年頃の記憶が曖昧なところがある。朦朧と横たわっていた日々。理由ははっきりしないけれどおそらくはSSRIのせいだろう、そういうことにしている。最近、そのおおよそ10年前の記憶と記録がいまの足元に繋がるような感覚を覚えていて、まずいな、困っていないけれど少し不安だ。

10年前の日記には具体性がまるでなかった、抽象に次ぐ抽象。少し前まで「日記を書いて、記録を残して」と思っていたはずなのに、いまその抽象がそのままつるんと飲み込めてしまう。

 

オーバーラップ!

 

あの頃うまく想像できなかったかもしれないが(というより1年半前の自分でもギリ想像できていないだろう)、フルタイムで働いている。どう思う? 関係ないね、オーバーラップ!

 

あらゆる過去がわたしを篭絡してゆく、足元から、あるいは肋骨に滑り込むように、または鼓動のひとつひとつに触れているようで、当然気も触れるようで、叫び出しそうな毎日がゆえに、文字を書きなぐる回数がわかりやすく増えている。

 

 

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君と会ったことはない。でもいつも一緒にいた気がする、でも実際はほんの数ヶ月だっていうことは、ろくに残してこなかった記録からわかる。記憶からはわからない、ただ「いつも」、いつもだった。

会いたかった。たぶん、その思いは探せば見つかると思う。曖昧な記録にも書き付けてあるよ絶対、確信できる数少ないことだ。

君とできなかったことを、他のひととできるわけがないのに。会いたかった。

 

 

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「ここにいるのがわたしじゃなければよかったのにね」そういう申し訳なさと羞恥心、消えてしまえばいい、わたしがいなくなること以外に本当はあるのか? そんな妄信、いや真理だと思えてしまっているから困っている、さすがにレンズを挟まないと生き苦しい程度の認知の歪み。

でもわたしは「ここにいるのが君ならよかったのに」なんて思っていないわけで、Aの矜恃とBの矜恃はそれぞれ異なりどちらも美しい。でも、「わたしでごめんなさい」の念は遠浅の海の波、気づくと足が浸っている。あんなに遠ざけたと思っていたのになあ。

 

「君は君として美しい」、例えばそういう姿勢を貫いてみるのはどうだろう。「わたしはわたしとして美しい」、そう思うよりは遥かに簡単な、そもそも至極当たり前のことだ。その当たり前のことを、自分に適応すればいいだけなのにね、どうしてわざわざ生きづらい風に認知を歪めているのだ痴れ者。

でもねえ、同じセリフを自発的に求めることはやめにしてるんだ、他者に依存してたまるかよ、自分に与えてやる、欲しい思いを強く思ってやる、逃げ切りでも思うしか。そう思うしか。

 

 

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外は夏みたいで、ここは6月で初夏で、6は完全数であるから毎日が完全であるはず。毎月6日と28日は完全の日。日差しの音が聴こえてくるようだ、いくら耳を澄ませたって君はわたしと同じ音を聴かない。わたしもそう、君と同じ音を聴かない。聴きたいと望んだって聴けない、閉ざされている。

違う音を聴いている。

誰も。全員。

気が遠くなる、自分も遠くなる。

 

わたしが誰でも構わない、せめて自分の聴いている音が聴こえたらいいなと、冷房でひえた耳たぶを指先で暖める。