薊ル的

 

金曜日に呼ばれた誕生日会は、18時開始と聞いていたから19時目指して行ったのに、18時半くらいに主賓が準備中に嘔吐して病院に運ばれているなんて情報が入ってきたものだからゲラゲラ笑ってミロを2杯飲んだ。連休の直前から遊び始めるとちょっと休日が長くなった気がしてラッキーな気持ちになる、来年から基本的に祝日が休めなくなるみたいでブルーだ、しばらく会えなくなるね三連休、だからその分蜂蜜みたいに過ごした。肋骨がぬるぬるしている。Do it!

 

14日の土曜日、映画館から出たら雪が降っていたため驚きながらもハンバーグを食べたし、ガタガタ震えながら端末握ってたら「桜開花、東京史上最も早い記録」という報が入るものだから、半笑いでへえ?と言った。のに、春分の日を含む先の土日は毎日晴れて昼間は暖かく、もしかして?と思ったら本当に桜がいい塩梅に咲いている。ちょっとしたワンダーランドじゃん、などと心ここにあらずな結びなのは、「ホワイトデーに雪が!ホワイト!」ということに気を取られて一行目で関心を失ったからです。

でも桜を見に行きました、哲学堂公園。苗字にするなら「唯心庭」とか「倫理淵」とか「感覚巒」なんかが格好良くていいなと思った。そして宇宙館に住むのだ。

 

いい匂いのするハンドクリーム(僅少)の代わりを用意する必要があったので、家に余っていたニベアの青い缶のクリームをsavexの空容器に詰めたところ、やっぱりつい薬指で取ってしまう。これは思春期の頃から続く後づけの癖で、わたしのロマンチシズムに起因する行動だ。これが習慣になって長くなっていることに気づいて欠伸をする。ほら、このように気取ったところがある。眠たくなっただけのくせして。

 

「流星雨」の「う」の音が好き。りゅーせーう、りゅーせーう、りゅーせーう。でも驟雨のうは別に普通です。「う」の口でキスしたい。

 

数年間購読していた季刊誌が、ついに不定期刊行になってしまった。本棚を圧迫してゆく様を楽しみに眺めていたのが、ここでとりあえず打ち止めです。代わりにこれからは月に1冊好きな詩歌集を買ってもよいことにします。本日25日、本屋に寄ろうと思ったのですが処方箋が今日までだったので断念しました。おまけに提出してみたら「本当は昨日まででしたね」と言われてしまった。

 

 


正直こういう世界になっちゃって、何がかっこういいのか見失っている。冷笑的も楽観的も露悪的も恣意的も何もかも間違っている気がするし、この期に及んで見栄を張りたいのだろうかというおのれの浅ましい発想にうんざりする。
と、今日の昼にこんなような厭世的で斜に構えたことを考えていたのに、帰宅のために電車に乗っている途中に急に押し潰されそうになってしまった。もう、こんな理不尽、ないじゃんか。こんなのちっとも楽しくない。

 

そんな感じで情緒をぐらぐらさせていたのに、いまこの瞬間は「理不尽って物語っぽくて素敵、こんなのほとんど恋、熱病、息も絶え絶え!」みたいな位置に足を掛けていて、これはこれでまた現実逃避的。

 

もうそろ、です。もうそろ心が折れてしまいそう。先が見えない長期戦はどうにも疲弊する。美しさなどに触れ、生活から離れることで生活をする日々を送ってきたつけかもしれない。最低限の生活を続けることは、ゆっくり酸素のなくなる水槽に留まるのに似た苦しさがある。二酸化炭素の抜けきったコーラは結構好きだけど、酸素がないことにはどうにもならない。「う」の口で酸素を分けてくれ。

 

 


Q.せっつかされたように喋っているのは不安の証左になりえますか?
A1.たまたま鍵盤を打っているから引っかき傷が残るだけで、書いたそばから飽きているのを気にも留めていないだけでしょう。
A2.だらだらと書き連ねるのはリズム感の消失の証左。冷えた炭酸水飲んでゆらゆら帝国で考え中でも叫んでたらいいと思う。