二脚

 

ぼうやりと淋しい気持ちになるのを大切にしている、この空白を埋めてはいけない、響かせるためには空白が必要だ、そういう詭弁により。もちろん言葉を転がすことにより意味を二転三転させてみることは簡単。淋しさで満ち満ちているから全部がかたくてなんにも響かないとか、そんな風にも言えるわけだ。

言葉を弄することは虚しいことですねえ、と思いながら頭のなかでパチンパチンとぶつけて遊んでいる。
指先で遊んでばかりいるからいけない。頭を通せばこのような気持ちにはならない、と、思い込むことにより、逃げていないと言い切れますか?

 

憂鬱というのは遠浅の念で、曖昧におしゃれな雰囲気を醸し出す醜さが腹立たしい。こんなとき君ならどうする? と草の陰に問うてもな。そんな方角に問う時点で憂鬱っぽくていけない。

 

昼間天気が良かった反動だろうな。天気も良かったし無性にバカみたいなラブソングが聴きたくなって、いくつか再生させながら晴れた帝都を少し歩いた。
Base Ball Bearの「抱きしめたい」があんないい曲だったって初めて知った。

でも気持ちよく歩くときってなんだか最終的にGDHM聴きがち。つい何周かしてしまうのはこれなんだけど、まあ気持ちよく歩きながら聴く歌詞ではない。お酒を飲んで記憶も靴もお金もない曲です。かわいくて愚か、超キュート!

 

 

 

友人から「君の好きだと言った本を買った」と連絡があった。こういうときに手元に本をおいておくべきだなと思う。名作かは知らない、他のひとがどう思うのかもしらない。わたし「は」好き、それだけです。

 

それだけ。と、いえば。

 

彼は始めて四方を見廻しました。頭上に花がありました。その下にひっそりと無限の虚空がみちていました。ひそひそと花が降ります。それだけのことです。外には何の秘密もないのでした。

 

この100文字程度を読むために毎回この話を読むのです、「桜の森の満開の下」。季節もズレてしまいましたが。
ひそひそと、はなが、ふります。それだけのことです。ほかには、なんのひみつも、ないのでした。
ああ惚れ惚れする。

 

抽象的なイメージでどうこうするより、論の道を通すべきだ。繋ぎ合わせる力が弱くて困る、ぱちんぱちんと音が鳴るまではめ込むべきで、こんなふんわり握るだけでは。
あんまり強く力入れちゃだめ、壊れてしまうから、だから優しく扱おうね。なんて、物理の及ばない世界の話を。

 

もう少し伸びたら髪を幾分か短くしたいと思う。汚く伸ばすのにも疲れてきてしまって、でもあと少しだし。

 

ふたつ並べたイスに横たわってだらだらと携帯端末を撫でている。身体が冷えているからなんとなく冷たい文章になるのだよ。布団に移動すれば全部済む話、音楽聴いて暖かくすれば解決さ。

 

1月末のエナメルは気づいたらもう欠片もなくて、3月末の予定は本当に飛んでしまったのだなと指を見るたび実感してしまう。
にんげんたち、どうかすこやかでいて。いすのうえより、あいをこめて。わたしより。