唾譚


事態は横ばいで緊迫しているはずなのにどんどんのほほんとしているような感覚を覚えているから認知はガタガタ、始末が悪い。外はバタバタしているのにのどかに感じてしまうのはわたしが家だと丸くなってばかりだからに他なりません。ずっとこうならいいのに、とさえ思ってしまう。出勤しなくていいと思うと普段よりもよく眠れるしすっきり起きられる。

 

 

あの頃の自分の文章はほとんど泣きぐずりの賜物だったから見ていられない。何があんなにいちいち哀しかったのだろう、どうしてその哀しみをいま同じように感じることができないのだろう。哀しがるところに自分の本質がある、などと勘違いをしている。本当のところそんなことは大した問題ではない。ただやっぱり事実として、哀しがることが多いというのは、たしかにある。抜け落ちた分の怒りを、彼女はまだ、怒ってくれているだろうか。それはない、それはないな。マイスリーでラリったときにだけ思い出して翌朝には忘れてくれよ。いつだって待ってるからね、忘れられることを恐れないから。


君ならきっとなんでも笑ってくれたよな、などとまた。とりあえず笑っておこうよってひとりで笑ってても異様にへらへらしているだけでずっと心臓は浅いところでばくばくしてて、それより頻脈って響き格好いいよね、「みゃく」がいい、あと「脈」って漢字も格好いいし。ねえ頸動脈噛みちぎられたらどうする?

人生って本当に一回しかないのかな? まあ何回目かなんだとしてもこんな感じなわけで、別に興味がないことだ。

 


晴れていたので引き続き「ラブビデオ」を歌いながらご機嫌に歩いていたのだけれど、「見る」を軸にふと「孤島の鬼」を連想してしまって、完全にそちらに引きずられしまった。僕はここで見ていよう、と。ああ見ててくれ、眼差してくれ、それで定められる輪郭線もあるってわかってる、わたしは死ぬまでわたしでいるよ。だから足首をそんな風に掴んでくれるな、絶対全員連れて抱きしめて生きてゆくから不安に思うなよ、泣きたいのはこっちだよ、まだ泣いてないけどね。神様を惨殺したいと言いながら何度も歩いた新宿通りと靖国通り、絶対まだ足が覚えてる。神楽坂を登って、絶対に足が覚えている。誰もいない。コインランドリーの位置。覚えている。猫を撫でた。誰もいないよ。
自分の醜い部分を見つめてしまったとかいう泣きぐずりも、笑ってくれる?

 


畢竟、泣きぐずってばっかり。いつになったら止むのかな。もしくはずっとこんな感じなのかな。これならこれで別にいいよ、そんなに嫌じゃないし、もう慣れたし、こうじゃない人生ってあんまり想像つかないし。イッツ・オーライ、楽しくいこうよ、ほら力抜いて。ちゃんと吸ったり吐いたり噛んだり舐めたり飲み込んだりしてごらん。

 

軽口叩いて遊んでる、蝶を浮かべて撫でている。わたしの概念になったけど、概念だから失くさなくて済むのよ。

 

光束ねてグラス重ねてかちんって音させたところで全然暗いままだからよく見えない。もっとぎゅってなって、さもなくば光ってよ。月は太陽がないと光らないの、ご存知でしょう。彼女はいまでも美しいって一文字読めば全部わかる。路上とバケツと精液。もうめちゃくちゃな世界、だけど彼女はいまでも、って。

 

そんな顔をしないで、あなたはあなたのままでいて。辺鄙な場所で場末のロマンチシズムをだくだく流し込んでさ、こうやって言葉が自分で意味を理解するよりも早く流れてくる感じが、きっと昔から好きだった。思考の速度に追いつけるはずないのだから大きい顔するのやめてね。イメージはもっと飛び回っているんだから、そこで地面を叩いてお過ごしくださいね。