疑ってみたり不安だったりそして最後にKissでしめるのさ


煽られている、大いに煽られている。

 

 

昨日は女に会った。彼女に会うのは今年初めてだ。パンケーキを食べ、服と化粧を軽く流し、レモネードを飲み、別れた。ざっと6時間ほど話し続けた。
彼女は日々思考を楽しんでいるが、そういえば土日に会うなんていつぶりだろうか、もしかしてそれこそ10年ぶりだとか、いや下手したら初めてもありうるな?
いつも会うのは平日の夜なのだ、10年近く前、毎日のように池袋で会っていた日々も平日だったはずだ。ランチをして、話して、お茶しようよと移動するそのときにさえ明るい。


そう、昨日は夏至だった。わたしは夏至が好きだ、ある種の極北である。夏の盛りにさんざめく生命の、断末魔の混じらない最後の日として。

 

 

 

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「昨日は女に会った」と恋人に言ったら臨戦態勢を見せていたので、女の代わりに、半ば馬乗りになりながらぶちまけさせて頂いた。彼女なら言葉で上手くやるのだろうが、わたしは身体に従った。おそらく、彼女の言葉は思考から生まれるが、わたしの言葉は身体から生まれる。どちらにしたって脳の仕業には違いない、ブローカ野だのウォルニッケ野だのと。


春分の日から夏至までがすっぽり入ってしまって、つまり夜より昼が長くなり続ける日々まるっと話し倒していることになる。極北が過ぎてまた少しずつ昼は短くなるけれど、次の極北に向かうだけ。恋愛などという営みは高尚でも下劣でもない。ゆえに美化もしないし嫌悪もしない。そういう現象の存在を認識している。

 

わたしはオーロラ、不定形の白いカーテン。恋人に日々観測されながら、意に介さずゆらゆらと動いている。
あのね、知ってると思うけど、オーロラって肉眼ではめったに青とか緑に見えなくて、本当に薄手のレースのカーテンみたいで、ちょっと拍子抜けしちゃうんだけどさ、それでも充分に胸を打つ。美しい瞬間を留めてはおけないが、常に美しくあり続ける。
わたしもそのようにありたい、などと思うまでもなく、そもそも世界の総てはこの性質を帯びているわけで。

 


いまこの瞬間、何か発声するとして、同じ温度で湿度で風速で風向きで……などのあらゆる条件を再現できるはずもなく、加えてさらに、そのときの発声者の肺の縮み具合は、腹筋の作業量は、咽頭の振動の程は、などと考えると総ては一度しかないことで、つまり二度と同じ色で名前を呼ぶことさえ叶わない。
非常に不確実、同じことをしてなどという要求はまったくの無理筋で、いかなるものだって再現などできないわけ。ゆえに、新鮮に感じられないのなら感覚が鈍い、心が怠惰をしている。

だから見ていて、わたしはいつまでだって揺れるカーテン。同じように揺れる眼を覗き込んで、「見ていてね見ていてね」。
早く甘く崩れる尾ひれが欲しい。尾ひれと言えば、先月は「蜜のあわれ」と「カメラを止めるな!」を見ました。

 

どうせ二度同じことなどできやしないのなら、何度だってわたしの名前を呼んで、両唇音を発しまくりなよ。

 

それにしたってまったく、両唇音がbpmだなんてできすぎている。Beat Per Minuteを連想しないほうが無理というもの!
唇と唇を薄く合わせて離す、淡い振動を意識すると本当にじっとしていられない。魚のように水面で口をぱくぱく(pakupaku、だなんてここにもまた!)させては、心底うっとりしてしまう。
水飲み鳥のように繰り返し名前を呼んで、そのたびに唇でリズムを取って、リズムにのるたびにキスだと思って。っていうかわたしは最初からそうしてるけど、君はまだなの?

 

それと申し訳ないけれどここ大江戸線、地下深くマスクの内側で舌と唇を使って、このようにむはむはと遊んでいる、調音点を探り続ける遊びに飽きるのにあと何年かかるのだろうか。もっとサンプルが欲しいとずっと言い続けている、例えば薄い唇のひとも調音位置は同じなの? 観測したい、瞬く薄い唇を覗き込みたい、「よく見せてよく見せて」。

 

早くもっと唇をすり減らして、生理食塩水のなかで会いましょう。そして甘ったるさで吐いて、脱水症状に怯える必要がないから非常に安全に吐くことができるね、と囁きながらあなたの腹に詰めてゆくビターフレーバーのわたあめのふわふわの、