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誕生日の余韻を引きずって浮かれていたら、「最悪の話していい? コンドーム取れて奥で丸まってんの気づかないまま最後までいってアフターピルを飲む羽目になって、いま体調最悪」と友人。
健康診断の待ち時間に、「お誕生日おめでとう! あとわたし赤ちゃん授かったんだ、安定期に入ったからお伝えしたくて」と別の友人。
可愛い靴を買ったのち、「さっきからぼかしてること言おっか、実は5月流産したんだよね、6週目」とまた別の友人。

 

上記の順でとんとんと話を聞いた。そしてまた部長は「息子が結婚したんだけど」と手続きの相談にくる、息子さんはわたしと同い年だ。彼のご祝儀のためにお金を包みながら、この数日の情報のことを考えていた。

 


万にひとつでも育まれては困るいのち/望まれて健やかに育ついのち/望まれたけれど淘汰される強度だったいのち

 

 

「昔から子宮には持病があるから妊娠能力があるってわかっただけでもよかったな、でもイライラしたくないし期待して望まないようにする。流産した後って妊娠しやすいらしいしね」と友人は笑った。

ナイトブラを導入してみたら胸が大きくなって配偶者とナイトブラを称えていたけれど、振り返れば思えばあれって妊娠だったのでは、という話はスマッシュヒット級のすべらない話としてかなり良い。わたしも大いに笑った。
後日、極力ライトにカジュアルに話をしたら楽になったという旨の発言をしているのを見かけた。先月、妙に攻撃的だった彼女と話すのを疎ましがったことを、少し後悔した。

 

 

さすがにこの手の話題を連日聞くことは初めてで、少し考えてしまう。

毎月毎月ほんの一滴にも満たない分泌物のせいで心身はへろへろに振り回される。怠気と眠気で動かない身体には荒れた肌が貼りついて、情緒も不安定になるし、あげく下着を汚しながら血が流れ、教科書通りであるならば、気づかぬうちに生殖細胞も流れているはずだ。

 


もう少し若かったらこんなに流産を重ねずに済んだかな、といった旨のことを呟いた彼女が産休・育休に入ってもうすぐ1年になる。
彼女は半年強の間に2回流産をした。1度目の流産のあとすぐ、彼女よりも5歳以上若い同じ部署の女性が出産を控えて退社した。それら一連の流れをすぐ隣で見つめながら、つとめて何も感じないことが自分にできる唯一のことだと考えたし、誠実に業務を引き継ぐことにのみ心を砕くべきとした。

 

 

自分の体内/胎内に命を孕む可能性のある性として生きてきたし、そこに違和感や疑念はない。それでも想像などできるはずがない。自分の身体の中で自分以外の脈が打つこと、あるいは脈も浮かび上がらずに消えてしまうことなんて。
畏怖がある、女と言う性に対する畏怖が。そして(そういった機能が現在働くかは不明としたって)、自分もその性に包括されている。違和感や疑問はない、ないとはいえ、そういった性別であることを本当のところどれくらい理解できているのだろうね。

理解をしているから不本意な事故の際はアフターピルを飲むことができる、わけでは、ない。

 


なるたけコットン地を選んでサニタリーショーツを3枚買い、それを鞄に詰めたまま友人と落ち合う。オムライスをつつきながらいろいろな話をした。いちばん最初の話題は都知事選のことで、ふたりしてびっくりしてしまった。

昨日に限らず、最近彼女とはよく「違う意見のひとと話す」ことの楽しさと難しさの話をする。自由や自主性を持ち味として謳う温室で出会った自分たちの了見の狭さ。どこにでもいけると高い支柱を建てられた朝顔の迷う蔓。わたしは温室からはみ出てしまった強くない種。

 

 

 

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対面でビールを飲んだあと、珍しく覚悟を決め緊張した口調で話し始めた様子とその内容を反芻している。そして反芻しているうちに自分が自分をじりじり追い詰めていることに気がついてバツが悪い。典型的な認知の歪みの自覚。

 


これまで散々ひとを苦しめて困らせてきた。もっと罰を受けるべきで、償いをするべきで、許されるまで許しを請うべきだ。
幸せになりたい。
「幸せになる」が何を指しているかはわからない、ただもっと楽になっていいはずだ、それはずっとわかっている。

 

幸福に対して回避的な行動をとってしまうひとの特徴として、自信がないだとか自己肯定感が低いだとか、書かれているのをよくみる気がする。自分もそうだと思っていたが、どうやら極端にそういうわけでもないような気がしてきた。
では何か。シンプルだ、「幸せになっていいはずがない」という歪んだ認知。これはではもう自己肯定感やらとは別の軸の問題なのだろうし、とにかく認知を変えるしかない。やれやれ、骨が折れる。

 


おそらくわたしのようなにんげんにこそ宗教は有用なのだろうな、となんとなく思う。

神を定め、信心深く過ごすことにより許されれば楽になれるのだろう。しかし誰が許すというのか。よく見るがいい、そこにいるのは決して神ではない、その神を選んで信じた自分だ。信じたい神は自分で選んだのだろう?

 

結局、自分を許すのは自分でしかない。しかしそれが難しいのであれば、自分と自分の間に神という機構を介在させる仕組みを構築すればよい。緩衝材としての神。納得するまで信仰し償えば許されると自然に思えるよう、緩衝材を用いて流れを変えるのだ。
わたしがいま口にしている「宗教」とはそのようなものである。そして、こんな風に認識しながらにして、都合よく神を信じられるはずがないのだ、神だと思ったそれの顔を覗いてみたまえ、そこには澄ました顔で微笑んでいる自分がいるだけだ。

 

まずは己に信心深くあれ、己のためにさえまともに祈れないにんげんが、信心をもってして救われるために逃げの一手を打ったって楽になれるはずがない。だからわたしは自分でやる、わざわざ機構を介在させる必要はない。
念のための補足だが、わたしは別に宗教に特別の不信感があるわけではない。

 

 

 

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哺乳類にも鳥類にも仲間だと言ってもらえなかった蝙蝠の寓話を自分に重ねるようになったのはいつからなのだろう。
どっちも味わえるなんてお得でしょって舌出してたら、お気に入りのビニール傘が壊れたのでゴミ捨て場にダンク。たくさんの小鳥がいる模様。わたしの空は賑やかで、誰も仲間外れにしたくないって姿勢で頭上に貼りついている。