スリーコードで君を助けにきた

 

昨日は有史以来42回目(いや43回か、どこを起点にするかはいつも悩んでしまう)の、そしてわたしにとって12回目の。あなたの見る夏はわたしの世界を何度も何度も編み上げる。

 


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散々書いていることではあるけれど、わたしはとにかく諦念が強くて、もはや諦念の具現と言ってもいいだろう。期待は排除せよ、最悪を想定し立ち回れ。けれど、ごく稀に「むしろ諦めが悪いのでは」と言われることがあって、そのたびに首を傾げ続けてきた。いわく、「諦めているひとってそんな戦わないんだよ、だってどうせどうにもならないって諦めてるから」。

わたしの塗り込めた諦念は非常に重たくて、死体を隠蔽すべくコンクリートで壁に埋め込んだような強固さがある。諦念、重たい四肢。けれども確かにまったく戦わないわけでもなくて、いざ戦うと決めたときの腹の決め方は陰湿と言って差し支えない。とはいえちっともスマートな戦法などではなく、最後までただ存在してみるというのが最終手段ではあるのだけれど。
でも戦う相手を見誤ることが極端に多い。結局ススキとばかり戦っては、ひとりで深く傷つくことがほとんどで、つまり自分で自分を追い詰めて勝手に苦しくなっているということ。そんな風ではとても生きていかれないから、丁寧に諦念を塗り込めたのだろう。揺れる戦意はわたしの地金としてきっとあった、でもそれを見失うほど丁寧に。迂闊に立ち上がることのないように。

以上の仮定から導いたのは、ひとに対して誠実でありたいと思ったとき、わたしはこの諦念を相手に向けないようにしているのではないか、という仮説。「どうせ」と言わない、最悪の想定をしない。無論、思い違いではないだろうか、自分に都合よく判断していないか、と不安に思うことはあるではないけれど、それをどうにか止める。不安を押し殺すのはわたしにとって非常に難しいことだ。
ああそうか、と今更気づいた。わたしは、誰かに対して誠実に相対したいと思うとき、相手を深く信じて期待しようとするらしい。手放しで信じるなんて甘えでしかないだろう、でもこれがわたしの実行する誠実のようなのだ。加えて、それは同時に傷つくことを恐れないという態度でもあって。

一般的な誠実からは遠くかけ離れているのだろうということはわかる。でも取り急ぎ、真摯であることだけは確かと言えるのではないだろうか。結局のところ、分厚い衣を脱いで素直でいてみたいという、それだけの話ではある。言葉をどれだけ使う気だよって思っちゃうけど、まとめるととってもシンプルで恥ずかしいね。


なるたけ、きちんとひとと付き合いたい。もちろんできる範囲で、正確には「したい範囲で」だけど。生きている限り再生するはずだ、膿んで悪化もするんだろうけれど、それだって再生の過程だ。この身体の限りは大丈夫。わたしの身体は頭より賢い。堂々と心臓は打っているし、肋骨はそれを胸に留めている。肺はひっきりなしに膨らんだり萎んだりして、骨、肉、血、すみずみまで酸素その他は運ばれる。

ということがとても大きな発見なことのような気がしたからこうやって書いてみたけれど、順を追って言葉を組むのって全然得意じゃないな。むー。

 


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臆病なcuteで含水率高めのウェット。
ススキがちらついてすぐに呼吸が苦しくなるよと俯いたら、鳥の声のする明るい昼を通り抜けた天使は「君より情に厚いにんげんには、ついぞこの歳になっても出会わなかった」と亀を撫でながら言った。「いないってきちんと認識する、取り違わないこと、あのときの自分にはできなかっただけ」、いつもの低めで甘い声。