表を見ると「1」を見ろって賽の目

 

小学校の授業と思わしき風景、みんなで何かの映像を見ている。なかでも一際熱心に映像を見ている少年がいて、登場人物の片方に思わず声援を送っている。映像の音声なんかは雑音として処理されている中、彼の声だけははっきり聞こえた。素直そうな様子で好ましいと思っていたのだけれど、どうにも彼が教室と噛み合っていない気配を感じる。いじめまではいかないかもしれないが、無視をされていたり忌避されていたりしているのだろうことはなんとなく伝わってきた。朴訥とした穏やかそうな子なのにな、と思ったあたりで既視感。
冒頭の場面に戻っている。
小学校の授業と思わしき風景、みんなで何かの映像を見ている。つぎは先ほどよりも解像度が高く、映像の音声も聞こえてきた。何かとても恐ろしいこと、おそらくは危険思想と呼ばれるような類のものに思われる、を淡々と述べる登場人物。ヒールとして用意されたであろうそれに、熱心に声援を送る少年。その目に曇りはなく、きらきらしていて冗談ではないことがわかる、彼はそちらが正義だと心から思っているからこそ熱心に応援している。クラスメイトや先生は突然のことに反応が取れないまま唖然としている。

そこで目が覚めた。木更津キャッツアイみたいな夢だなと思った。思えば昨日見た夢もやたらと長編のアドベンチャーものだった。正義は一義的なものじゃないとかそういう高尚な話ではない。

 

 

彼の指先がくすくすと笑うのを聞いていたかったけれど音の記憶がない、それも夢だったから。3月が終わるよ、確信を得たその日からも1年。二重にレコード再生しているような気分になる。

よく晴れているからベランダに出て日光を浴びる、間違えてこのまま飛び降りてしまいそうだと思う。いつも思う、わたしは迂闊だから普通に転んでしまうかもしれない。いま落ちたとして、事故か故意かなど自分以外誰にもわからないのだなと考えて少し愉快な気持ちになった。そのあとにまた少し泣いた。


最近「素直だね」と指摘されることが多いとはいえ、ある点においては信じることに対して慎重であると自認している。時間をかけて丁寧にほぐされていた、怯えなくても淋しがらなくても、不安にならなくても大丈夫。安心し切った頃合いにこういうことは起こる、そんなこと昔からわかっていたのに、だから慎重にやったのにね。
あんまりに丁寧に為していったものだから、今だって余裕で。
わたしは純度の高さや感情で揺り動かされてゆく。

 

 

 

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病院に行くことにさしたる意味は見出せていないが、強いて言えばチューハイを片手に高架下をひと駅分歩く帰り道が好きだ。

「生活に障りがないなら」と何かを話し始める前に制してくる白衣のひとは、そのわりに通院ができずにへばっていると「なぜ来ないのか」と言う。

 

Q.先生、わたしを助けてください。
A.助かりません、あなたは頭が悪いので無理です。時間がかかります、死んでください。

 

歩きながら飲酒をすることにはメリットがいくつかあって、例えばわたしみたいな酔いを感知するのが苦手なにんげんには足取りの軽重といったものが指標のひとつになる。飲酒をした自分が間違えて車道に踏み出したりしないかと全く期待していないかといえば嘘になる、でもわたしには理性があるしそこそこ薬理にも強いからそういったことはまずないな。


友人の言う通りだよ、この歳にもなってくると回復が遅い。

この世の苦しみも喜びも全部自分の心から発されるものだよ、戦場も楽園もここにある。死ね、死ねよっていくつになってもうるさいよねみんな。今日の死にたさ本当にすごい、って冷静に観察してるふりしてる自分もいるけどひとりのときって本当はずっとこうなんだろうなとも思う。まかり間違って足を滑らせて死んだりしないだろうか、と茶化すように考えているが、そうやって書いている時点でわたしはまだ生きている。電車に乗っているときいつも泣いている気がしていてそれは気のせい。


どういう意図がそこにあるのか、あるいはなんにもないのかもしれないけれど、わたしはとても哀しいということ、淋しいということ、こんな気持ちのまま年度が変わってしまうこと、それを伝えられないままでいること、何度冷静になっててもアンサーが変わらないこと、それは誰に邪険にされても覆らないこと、時間をかけて考えてみてねって言われてもここがわたしの限度であること。
もう無理だよと思うそのとき、本当はまだ一歩歩けること、その「あと一歩」をもう何度も使ってきて本当に疲れてしまったこと、そういったわたし以外にとってはくだらなくて仕方のないこと、読んでるだけで死にたくなるぐらいどうでもいいことを書きつけるくらいしか、もはや手立てのないこと。それでもきっと楽にならないこと。
わたしがどうなろうがきっと君の知ったこっちゃないこと、それでもわたしは自分の信じる自分を信じてみたいとすれすれのところで思っていること、どうかそれが裏切られませんようにと願うこと、すなわち自分が守られますようにと両膝をついていること。

少なくともわたしのここは楽園とは言えないこと。それは畢竟全部自分のせいだということ。自分なんて死んでしまえばいいのにと呪っていること、だけど祈ってもいること、いつかきちんと「自分の分がきた」と心から安心できますように。できれば、

 

戦場とか楽園とか言いましたが、天国とか地獄とかの曲です。