わたしはうわてでおとなだから

 

紆余曲折あるけれど、どうやったって解像度がどんどんあがっていってしまう風にできているこの脳だ。涙でぼやけさえしなければわたしの世界はたいそう鮮やかなはずで、今日は変にぼやけなかった。世界がよく見える。見通せる。

ああ、風通しがいい。

自分の性質がよく見える、恋というものの性質も、わかり合おうとすることの喜びも哀しみも危うさも尊さも、通じてゆく快感も恐怖も。わかる、わたしのこの構造を指して、きっと好きだと言ったんだろうな。

何をしてもただ解像度が上がってゆく。わたしは盲だし、わかり合うことが得意なにんげんではないのだけれど、そういったことはよく見える。わかる。

 

 

言葉にするということは定義するということ、定義するということは切り落とすということ。言葉の性質としてこれは見落とせないと思うのだけれど、言葉が切り落としたその部分を痛く感じる。ここ数年、よく考えていることのひとつだ。

例えば、
言葉になる前のものはクッキーの生地で、言葉はクッキーの型みたいなものだ。感情などに言葉を押し当てる、当てはまらない部分は余分になってしまうし、型の位置が不適切だと生地のない部分が生まれる(更に言うなら言葉になる前のものは固形ですらなくて、水やゲル状のものに型を当てているような感覚だとも思う)。
綺麗なかたちのクッキーを差し出すタイプの表現やコミュニケーションは大切だ。わかりやすさはそれだけで強度がある。でも切り落とされた部分も決して軽んじられない。

だからね、
わかりやすさを重視して綺麗に加工してある言葉よりも、伝わりづらくても極力生のままを伝えようと言葉を選択するところが好き。
その不安定な、でも擦り切れていない情報を手繰り寄せながらわかり合おうと歩み寄ること、通じ合いたいと願うこと、毎日ひとつも飽きない。何より楽しかったし、そうできることに感動した。

こうやってもっともらしく近しい言葉で漸近を試みてみるけれど、これももう違う、全然そんなことじゃない。論理はいつも置き去りで、言葉になる前のものの尻尾を捕まえては手渡そうとして、「言葉が通じる」という言葉で表していたけれど、通じていたのはたぶん言葉じゃないんだ。原風景だとか、わたしの好きな言葉を用いるならイデア。たぶん類としてはそういうもの。

ゆえに、わたしの感動は特別な論理を必要としない。何かで読んだという「ひとの心を動かすのは論理だけだ」という箇所には注を足しておいて欲しいんだ、ここに例外が確かにいるよって。

 

 

自分でも自分が苛烈だと思う。「淡い恋の真ん中を泳ぎきってみせてよ」なんて可愛いものではなくて、わたしは大きな水でしかもわりと泥濘んでいるから、なるほどね、あなたの言葉を借りるなら、これは海難事故だ。今になってよくわかる。自分の性質がよく見える。

今日のわたしは自分を突き放しているようだ。そう、この距離感、いちばん風がよく入る。風の通り道が光って見える。わたしの考えていることも感じていることも思っていることもわかる。たまにあるのだ、突風のさなかで凪いでいるような、この。

わたしはいつもうっすら混乱しているから、たぶん次の瞬間にはまた崩れて見えなくなるんだろうけど、肌で感じる風がなんてなんて気持ちいいことだろう。夜の日比谷公園を通ったらたくさんひとがいた。

 

ぼろぼろだしガタガタだし頭壊れてるし初期バグも多いし自己肯定感とかもよくわからないし価値とか意味とかもっとよくわからないんだけど、
いまこの瞬間の自分の、ほとんど丸腰で立っている地平のことは美しいと思う。

 

不恰好は承知だ、誰も笑ってくれるな、それでも戦い続けるこの軟弱な肉体を批判するまえに、与えられた矮小な器を見てくれ、ここに注いだ水の量を見てくれ。水の量なんて大した話でないというならこの話はこれでおしまい。計量できるわけでもない、実用性に乏しいこの精神の限りで、でもまだどうにか肋骨に引っ掛けて、落とさず歩いている。

わたしはここにいます。扉はいつでも開いているからノックはお気軽にね。ブログにはコメント機能もあるんだし、読んでいるあなたには言葉があるのだろうし。

 

きっとね、こうやってしっかり地面を踏んでいる、ような気になっているだけだ。
膝はがくがくで、いまにも総てを落としてしまいそうで、そのくせ強がっているわけではないから変に堂々と立てていて、でもこの危うさをどうか、誰かひとりにとは言わない。信頼できるあなたに、支えて欲しいとも言わない。ただ見ていて欲しい。上から目線みたいな言い方になってごめんなさい、これは純然たる、ただのお願いです。

ここまで読んでくれてどうも有難う。