心臓まで走らせないと

 

可塑性という言葉には思い出がある。

ふと、「涵養」という言葉を使いたいなーと思った。難しい言葉ってあんまりたくさん知らないし使いたいって思うことも少ないのだけれど、もうそれしかないよねって指になることがあってそのときには惜しみなく使うしつこく使う。

模倣しようとすると自分が浮き彫りになるというか、固定の外れない軸足が見えてきて、どんなに上半身がぐらついてもわたしはここに立っていますよって大きい声で教えてくれる。

緻密で洗練された表現や感情を込めた表現や視点を振り回した表現とか見ると楽しくてぞくぞくするけれど、あれって異質だから感動するんだよねっていうところに今いて、いくら「言い当てられた」と感じてもそこに自分は至らなかったという差異がなかったら感動しない、それはそう、至っていたら書いている。感動する、誰もかれも別人過ぎる。
ひっきりなしに書いてはいるのだけれどしっくりこない歪んだ地層。書いてるだけではだめなのよ。でもこれがすごく正常なわたしの地場よねって気もする。

 

 

たったの数モーラ、動詞ひとつ単語ひとつで描く絵が変わってゆく面白さ。散文にまみれてそれなりに長い、いつか定型詩のにんげんになりたいという憧れはあれど、自分から出てくる情景の広がらなさに落胆する。

絵からたった一語を抜き取ってゆく緻密な作業、完璧な一語を揉み続ける作業はそれはそれでちゃんと楽しい。磨くというのは好きな作業だなと思う。磨く段階まで積む作業がまずすごい。パレットをざっと広げてどの色を置くのが的確なのかを選ぶのは技巧や理論だったり経験に基づく勘だったりするのだろうけれど、職人技であることだけはわかる。
ここぞというときに選び抜く一語に甘んじない背筋を通しておきたい。ぐるぐる回る電気を捕まえて、その電気が飛び出た理由をちゃんと理解してあげたい。無意識が弾いたものってそれだけで強い、理由はある、口がそれに追いついていないだけ。

 

なにせ落ち着かないというか、落ち着かないときは指に任せて文字を書くのがよいというか、ぼうっとしていると白い部分に文字が埋まってゆくことそのものにほっとする。たくさんの紙にカッターナイフを滑らせながら、定規に変な傷があるせいでいつもカッターが乗り上げてしまうこと、そのプラスティックを刃物でこする感覚に毎度背筋を凍らせていたことを思い出した。