幽玄十港

 

昨日、突然、足の裏を地面につけると楽だということに気づいた。

いままで親指の付け根とかかとの内側のみを地面に接地させて立ったり歩いたり走ったりしていたのだが、ふと小指側を接地させてみると突然腰がすっと伸び、起立時や歩行時に使う筋肉が変わった。もしかして間違っているのかと思って調べたら案の定らしい。この間違えた歩き方でも何時間でも困難なく歩けてしまっているし、一般的なひとより歩くのが好き。間違ったままで好き。なんだかまんま自分みたいだな、と思った。間違っていても困ってないしそもそも間違っていることにも気づけない。

でも腰から太ももの裏までゆっと伸びる感覚は気持ちいいから、しばらく意識してみようと思う。身体はおもちゃだ、感情と同様に。

 

今更のように歩行という行為に感動し、身体の動きのいちいちに新鮮な気持ちでいると、初めて陸にあがった魚や、陸を捨てて海に戻った鯨や、最初に空を飛んだ鳥のことを連想した。これはわたしが生んだイメージではなく、彼が好むイメージがすっかり自分になじんだだけで、だから、思い出す曲があることも、当然なんですね。

小学校の頃から「好きな言葉」の欄にはこの曲の歌詞を書きつけてきた。あの頃の3倍の年齢になって、ようやく初めて、その曲を耳に入れることに成功した。ひどい嗚咽が止まらなかった。これは2025年最後の、そして2026年最初のライブの話。

「2011-12年の年越しライブの1曲目がこの曲だった」という話を聞いて、混乱のあまりとりあえずファンクラブに入会した。好きが乗じて嫌いが過ぎて、耳に入れるだけでも激しい嫌悪感を覚える状態が3年は続いていたし、もう相まみえることもないと思っていたのに。そこから綺麗に14年経ったらしい。わたしの人生をいつも正しいものに押し上げてくれる気がする。

 

足裏の感覚ひとつでこんなに発見があるのだから、今年もきっと、スゲーのな。

本年もどうぞよろしくお願いします。

末日のドライブ(電車)

 

振り返る暇もなく31日で、今日さえ休みなく渋谷にいていまは横浜。このまま横浜ではっぴにゅという訳。

 

本年もつらつらと本当のことばかりを書き連ねてきました、という嘘とも本当ともつかない、わたしにも確かめられないことを書き残して、書き残すっていうけどいつだってその瞬間は残す気がひとつもないんだよね。書き残ってしまうならとりあえず匂いが強いといいような気がします。どう思いますか。

 

本年も有難うございました、来年も宜しくお願いします。

耳にぶつかる感触だけ柔らかくすればと言葉の角を落とすような気づかいを見せているようではありますが、そもそも摩耗した精神から繰り出される言葉もまた摩耗していたら、ただただ言葉を痩せさせてゆくだけのことだと思うよ。

 

<手紙>

こんにちは、あれから一年なんですね。あなたがいなくても損なわれない事実として在り続けています。たくさんの拠り所になる言葉をくれて、言葉が拠り所になるということを教えてくれて、本当に有難う。ずっと好きだと思います。わたしの命のあるかぎり、という意味での「ずっと」ですが。そしてそれは本来、書くまでもないことですが。

</手紙>

 

※タイトルとは一切の関係がありません。包含の関係にない、でもどんな関係なら適切だというのか。そういえばよく知らないままだ。

君は無罪を勝ち取った

 

遊泳のことを考えていた。これは固有名詞。
たしか遊泳だったんだと思う、それで教わって、ブログを読んで、音楽を聴いた。この順番で辿り着いた。

変拍子に揉まれながら、昨日。解散前の数倍以上のキャパシティに膨れ上がったライブハウス。全然とれなくて、いちばん大きなライブハウスで行われる追加公演がどうにかやっと取れた。開演直前に入ったから舞台の上は見えない。音が聴ければそれでよかった。

 

「過剰に痛がりですべてを怖がっていて、だけど絶対に手を離さなくて」

ひとにそう言われたことが何度かあることを急に思い出した。過剰に痛がり。きっとこれは今もそうだな。

舞台の上がろくに見えない奈落で音圧に身体を揺らされながら、耳には馴染んだ曲であって、でも身体には初めての曲であって。身体に入った音や詞をつつきながら、何度も聞いた歌い出しを聞いたとき、急に「確かに過剰に痛がりだ」と思った。

恍惚とした言葉たち、憧憬とか、当時の自分の壊れた文章とか。いまでも自分は文法が乱れていて、それを気に入っているのだけれど、当時はもっとひどかった。文脈がなくて、一行ごとに違う話をしていた気がする。懐かしいとも思わなかった。ただ叫ぶ直前の感覚がずっと続く感じ。それが焦燥感という3文字に閉じ込められることはいまだに鳥肌ものの薄気味悪さではある。

 

それから、ものすごく2010年代の音がする。目の前に転がり出てきたそれはとっくに15年前でうっすらしたよくわからなさが続く。

なんだか視界がぐんにゃり歪んで、セックスをしているみたいだって思った。あるいは頭を撫でられているような心地。少しずつ動きを変えながら、結局はずっと同質の感覚を与えられ続けて混乱しながら意識がぼうっとしてくる感じ。全身で情報を浴びていると思った。大きい音で音楽を聴きながらセックスしたいなあとも思った。もっと曖昧で朦朧としたい。過剰な痛みはそのあとに遠くまでぼうとほうける感覚を持ってくる。エンドルフィンでだめになってしまいたい。こう思うこと自体が既に過剰に、かもしれない。

ね、この夏、エンドルフィンという名前のアイシャドウを手に入れた話ってしたっけ? 鮮やかなピンクに青いラメが詰まっていて、つまりわたしの内臓と同じ色。もう廃盤だから試したかったらわたしの腹を割くかメルカリで買うかしてね。

 

ここまで読んでくれた優しい方のために最近食べたコンビニスイーツの話をします。セブンイレブンのスモア~マシュマロ&生チョコ~(税込216円)おいしかったです。

 

遊泳のことはたまに思い出す、遊泳がわたしを思い出すかは知らないけど忘れてくれていても構わない。「忘れ去られたその先で、わたしはあなたを」なんて。笑っちゃうね、検索機能なんて。

スーパーでいつも小さく踊ってるよね、と指摘された。わたしはそんな自分を知らなかった。誰かの記憶の中にひっかかっているわたしは、きっとわたしの知らないひとなのだ。

最高に今夜を駆け抜けて

 

こともなげに流されて爪先が地面を割くようだ。もっと強欲に、もっと。

“いま”かけられた言葉を弾いていたら、”過去”同じような言葉をかけられていたことに気づいた。”いま”が誘発した以上これは”いま”としてカウントすることになるのだが。どこにいても、何を見ていても大丈夫。わたしは必ずここにいて、手が届かないはずがないから。これはずっと手の内にあり続けるし、そうじゃなくなったときには舌嚙んで死ぬ、そんな約束をするために舌を結ぼうね。

 

どこにも出口がないけれど、出すことが目的ではなくて、あっちこっちに流れてひっかき傷が赤を引く。そこにどんな図柄だって見出してみようという遊びをしている。ひとりで北海道に行ってひとりでおいしいものを食べた。わたしはすっかり大人だから、朝ごはんにパフェを食べても誰も咎めない。自分で決めてそれをして、空港でワインを選んで帰る。

 

先週、不意なことで火傷をした。熱湯がゆっくりと這って、親指の付け根から手首の甲。大きいナメクジが貼りつくように黒ずんだ肌を一週間は眺めている。

熱湯がかかってすぐは鋭く熱かった、そして次の瞬間すうっとぬるく感じた。普通の水がかかったかのよう。手を振って小さな水たまりを振り払ったらやっぱりきちんと熱湯だった。

それから次は、ナメクジが熱を持った。あるいは、ナメクジの感覚が鋭利になっていて人肌が触れるだけでも熱く感じるようになったか。主観の生き物なのでどちらが正か、どちらも正か、判断ができなかった。どっちでもよかった。特別な感度を持った部分が出現したことが愉快だった。

そしてしばらく間が空いて、黒ずんだ肌が固くかさつき、ぽろぽろと剥がれ出してこれが今。まだら模様にぴかぴかの肌が出現している。撫でると2種類の手触りが味わえて楽しいが、剝落は加速。ナメクジの祭事も終焉が近い。新陳代謝はこのように。本稿はかんさつにっきです。

 

もっと野蛮に、慈愛をもって、甲斐性がわたしには必要。眼差しには物理的には重さも湿度もないらしいって知ってた? そういうことにいつも驚いているからすぐに足首ぐにっちゃうんだけど、重さのない世界では怪我もあんまりなさそう。痛覚が死んじゃってるだけって可能性もあるけど、死んじゃってたら生きちゃってるってことにもなってしまう。もっと偏在していこうね、いつも傍にいるのだけど。