無論すこぶる自然な会話について

眉を下げて口角を引き上げて、「かような会話に疑問を抱いたことなど?」という素振りでする天気の話。今日は天気がいいですね、今日は朝から雨ですね、週末寒かったですね、お布団干せない日が続きますね、明日は晴れるらしいですね、来週はまた雨だそうですね、先月は半袖着てたのに衣替え大変ですね。毎日毎日朝も昼も総てこれでおかしくなりそうだ。予定がなければ天気予報も見ない生活だというのに、「ひとつも違和感など?」。どう思われていようが何も気にしない表情、眉を下げて口角を引き上げて無邪気の風、飽きもせずにこんな話ばかりをする。本当はこんなぞんざいに天気を扱いたくないのに、ごめんね、と窓の向こうを見て胸を苦しくする。「かような会話に疑問を抱いたことなど?ましてやひとつも違和感など?」という態度を取ってくれているひとには何も思わないくせに。

こんな会話をつまらないと思ってしまう自分の神経が宜しくない。大事なのは会話の内容ではなく会話をしコミュニケーションを持ったという事実だというのは本当なのだろうか。もちろんコミュニケーションを取っただけでも喜びがある相手もいる、絞り出すように呟く「雨ですね」、これが勝手に意味を持ってしまって肥大化、雨の象徴になることさえ。寒かった日、街の匂い、煙草を吸う横顔。そんなのはちっともつまらなくないよ、相手がどうだったかは知らないけれど。きっと会話は続かなかっただろう、だからいい、それがいい。意味がないことを君もわたしもわかっている、存在しないはずの意味の輪郭をなぞれば、あとから浮かび上がってくるのだ。意味なんて。意義なんて。結局わたしが決める、などと当たり前のことをのたまう。

砂を噛むような天気の話をしていると、毎度毎度自分に血が通っていることが信じられなくなる瞬間がくる。「明日は晴れるけど週末はまた雨なんだって」という情報に対して、「また洗濯物溜まっちゃいますね」なんて返したりして、これはもうほとんど相槌を打つ機関だ。何かが決定的に欠落しているし、おそらく相手もそれに気づいている。それでもポーズを保ち続ける限り(「ひとつも違和感など?」)、相手もそのように(「ひとつも違和感など?」)思ってくれるように感じられるのだ。

こうやって親しい者同士の真似事をしないと親しくできないのならば、わたしはずっと親しくなれないのだろう。二律背反だ。それでも続ける「ひとつも違和感など?」、動かない心を動かしたくて肋骨がぎしぎしと鳴る。金属が軋むような音だと思ったら、録音しておいた笑い声がうふふと再生された。相手は機械的なその反応を見て見ぬふりしてくれるから、血はますます冷たく流れ、今日もわたしの肉が凍る。

君は聴いていないだろう、わたしは生者だ。

先週はとても充実していた。お盆時は佐渡ヶ島で過ごし15日に帰宅。16日17日はTHE NOVEMBERSを見て、18日はNumberGirl野音の音漏れを聴きに行った。どの話から始めよう、やっぱり音楽の話からだろうか。

 

天使のピクニック

最新作ANGELSと初のフルアルバムpicnicの2枚の曲を全部演奏すると聴き、チケットを買おうとするも本公演はソールド。どうにか追加公演が取れたので行ってきた。とても、とてもよかった。

THE NOVEMBERS自体はずっと聴いていた。それこそ11年前picnicが出たときもリアルタイムで聴いていたはずだ。初めて見たのはparaphiliaのレコ発のワンマン、渋谷クワトロ。あのライブではずっと泣いていた。ずっと痛くて痛くて泣いていた。

あの頃わたしはTHE NOVEMBERSは長く持たないバンドだと思った。あまりに清らかで美しく、繊細で、そんな心でどうやって生きてゆけるのだろうと。汚されるしかない白、守り抜くことのできない白。痛みを感じやすくて、澄んだ心をしている。それが彼らに対する印象だった。

それが変わったのはいつ頃だったろうか、Misstopiaくらいだろうか。おや、と思う瞬間があった。狭い世界で痛みを抱きしめていた青年が、攻撃性を帯びている! 別にそれで離れたわけでもなかった、新譜が出たら必ず聴いた、新譜はもれなく格好良かった。機会があればライブにも行った、常々彼らは格好いいバンドだった。最新作ANGELSを聴いて驚いたのは、「このアルバム好きだ」と思ったことだ。そして初めて、「このバンド好きだ」とばかり思っていたことに気が付いた。

 

硬派な曲の揃ったANGELSと生々しい血肉のpicnicが並ぶとどうなったか。あのpicnicが、失われる白が、こちらを焼くような強い閃光のような白として演奏された。

ガムシロップ、アイラブユー、アマレットという冒頭の3曲がもう既によかった。ガムシロップから連続するように叩かれたアイラブユーのイントロのドラム。太くて柔らかい音、木のような揺らぎ。2Aの歌い出し、「愛しているさ」のときに入ってくる楽器たちは水がちゃぷんとするようで心地よかった。最初の「愛した言葉食べられたい」の囁くように声量を抑えた歌い方、彼はファルセットもシャウトも綺麗に伸びる、説得力がある。

胸が抉られそうなほど多感な3曲のあとに演奏されたのはANGELSからplastic。電子音をふんだんに使った曲がこの並びで来ること、それが特別浮かずに格好いいこと、そう格好よかった。ライブが終わるまで格好いいと思いっぱなしで、こんなにライブに没頭したのは久しぶりのことだと思った、とても気持ちがよかった。聴きなじんだ曲たちが現在の彼らの強さを持ってして鳴らされること、最新アルバムの曲を聴けることも嬉しく思えること、なんだか総てがよかったな。

この演奏の強度ならきっと肝になると思った白痴の凄まじいシャウト、そこからこわれる。感傷的な懐古に納まらない新しいpicnicに、とても胸を打たれた。その日しか行けないというのに終演後にTシャツも買ってしまった。

結局、翌日の本公演も当日急遽都合が悪くなったという方から開場の少し前にチケットを譲って頂き、行ってきた。浮かれて買ったばかりのTシャツを着て出勤した甲斐があった。

 

清らかな痛みのアルバムというところから認識をアップデートできてよかった。ようやくあのアルバムを聴いて格好いいと素直に思える日が来たのかもしれない。いい、とてもいい公演だった。

  

真夏、蝉、透明少女

2日間THE NOVEMBERSを見て、11年前と今とを繋いだ翌日はNumber Girlの音漏れを聴きに野音へ。なんにも繋がらない、彼らが解散したときわたしは彼らを知らなかった。わたしが初めてNumber Girlを聴いたのは16歳のときで、「彼女が初めてNumber Girlを聴いたのは17歳」ではなかったことを悔やむ羽目になった。ビールを初めて飲んだのも17歳ではなく、そもそもビールを飲めるようになったのは比較的最近の話だ。

だから、ビールとチューハイを鞄に入れてひとりでいった。音漏れを聴くためにきたひとがたくさんいて、見えなかったけど、聴こえたよ。透明少女の演奏直後、隣のひとが乾杯と缶ビールを持ち上げた。乾杯の高さに持ち上げてあった缶をぶつけた。外でうだうだ飲みながら視覚を排除して楽しむNumber Girlもとてもよかった、もちろん入りたかったけれど。

チューニングで分かったのだ。ここで晴らさなくてはダメだと思った。飲みかけのチューハイを置いて鞄からビールを出してプルタブを引く、YOUNG GIRL SEVENTEEN SEXUALLY KNOWING。特別好きな曲というわけではなかったのだけれど、そこで初めてばたばた泣いてしまった。彼らの不在の間に勝手に募らせた思いの重たさに自分で驚く。二十歳の誕生日に右肩にハートの刺青をいれようかとさえ検討したことを、思い出してるちょっと。

蝉の声がうるさくてMCなんて聴こえやしなかった、でもそれがすごくよかった。わたしはお酒が飲めるようになっていて、そういえば生まれて初めてオールナイトイベントに参加したのはNumber Girlがかかるというイベントだったな、下北沢。わたしは無敵の年頃で、明け方アスファルトに寝転がって空を見ていた(当時たびたびアスファルトに寝転がって空を見ていた)。

 

 

大好きな音楽が今日も足元まで続いてること、鼓膜を揺らすこと、連綿と揺れたり揺れなかったりする心があって、いちいち大袈裟に嬉しい。

夏に祈ってもきらきらしちゃって、これは散り散りの乱反射じゃないの?

遅れてきた梅雨の蒸し暑さにくらっとしていたら「ア」という間に8月も第1週が終わろうとしている。「ア」の間抜けな口のまま、わたしはゆっくり気を違え始めている。夏の宿命だ。

今日までの、この夏の話を少し。

 

 

・団地ばかりの古いニュータウンで眠る

最寄駅を出た瞬間から団地に次ぐ団地。団地を抜けて、20分歩いたところにある団地群の団地に1泊した。そこまでは終電の終わった夜道を歩いた、木がざわめいたり下水がさあっと流れたり、歩くごとに音が違う。まるで横スクロールゲームの世界みたいだった。歩くごとに、曲がるたびに、まえと連続した雰囲気だけれど少し違う景色がまたしばらく続く。思えばニュータウンに来たのは初めてだったかもしれない。

明けて翌日は快晴、団地のなかを4-5時間散歩。夜はつくねハンバーグとおくらの煮物、アクセントに山葵を添えたパスタを作って食べて帰宅。

 

ART-SCHOOLばかりを聴いて過ごす

もう日記なので非常に恥ずかしいけれども正直に書く。7月はどうしてかART-SCHOOLばかり聴いていて、さすがにこんなにARTばかり聴く時期は人生になかったので少し驚いている。木下理樹、元気にしているだろうか。たくさん動いていたバンドがふいに見えなくなると、何かすっぽり抜け落ちているのではないか不安になる。人生で初めて木下理樹の健康を祈った。ARTのことは恥ずかしいバンドだと思っている、でも、木下理樹さあ、みっともなく生き恥を晒しながら醜く生きながらえてよ、ポップソングライティング能力をひきずって這っていって。

 

・浴衣を着て花火を見る

「明日地元で花火がある」、気づいたのは前日だった。浴衣を着ようと思った。「浴衣を着ない?」、連絡をした。「持ってない」「貸す」「じゃあ明日」、当日息を切らして帰宅したら先に友人が訪れており、わたしが十代の頃に買ったお気に入りの浴衣を着ていた。連れだって歩いた、どーん。たーまや。薄いさっくりとした三日月が浮かんでいて、たまに花火に内包される。そのうち煙で弱く、見えなくなってった。おしまいに大きく眩しく、ぱらぱら光が落ちて、拍手が起きて、そうして背中を向けた頃、きっと三日月は帰ってきたのだと思う。

 

アベフトシ展に行く

知ったときにはtmgeは解散していた、なんならROSSOも解散していたくらいの時期だと思う。アベくんの存在は認識したことがなかった。存在していたんだな、とツマミの薄れた文字を見て思った。尾藤さんとお話ができた、あのとき買いたいと思わなかったムック本を、いつでも手に入るかたちにしてくださったこと、いつかとても嬉しく思うのかもしれない。そう思ったのも初めてだった。18時に閉館になると聞いていたけれど、場内で流れていたDVDの間がすこぶる悪かった、本編が終わりアンコールが始まったところ。ここで切られたくない/切りたくないの充満。結果として、ダブルアンコールの『世界の終わり』まで流れることに。途中で音量をガツンとあげてくださって、その心意気でなんだか泣けてしまった。見始めたら映像が格好良すぎて、結局クローズまでいてしまったことに拍手してから気づく。月光荘で文房具を買って帰った。

 

・ピアスを開ける

自分はピアスを開けないだろうと長らく思っていたけれど、10年弱前にある女の子が左耳たぶをぶち抜いていった。そうだ、2010年の2月上旬の話だったと思う。そこから少しずつ、右の耳たぶに、左の耳たぶに、右のトラガスに。そして左の耳たぶのひとつを裂いたのが……そうだ、あれも夏だった。2014年8月25日の新宿、覚えてる。

ピアスを開けないだろうと思っていた時分からかわいいと思っていた箇所が2ヶ所あって、トラガスとネイプ。美しい友人の誕生日にネイプ、つまりうなじにピアスを開けた。特に理由はないけれど、やってみてもいいかなと思ったのだ。そんなわけで、ボディーピアスデビューをしたのでした。憧れの場所2ヶ所で金属が輝いている。

 

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そのほか、BUMPのライブに行ったり(前ツアーについで2度目、たくさんのたくさんのたくさんの光!)、誰かの決断力不足のせいで初動が遅れ、まったく分野外の引継作業を現在進行形で猛然と進めていたりもした。美しい友人の誕生日が来て一日嬉しい気持ちで過ごしたりもした。久々に生家以外に連泊する予定がある。

 

昨日、夏の夕暮れを30分ほど歩いていたら、急にきらきらした思い出がたくさん溢れてきてびっくりしたんだ。忘れてしまっていたものとか些細などうでもいいものごとなんかもあった。でも確かにきらきらしていたことが、溢れかえるその瞬間、夏の光線が反射して、ああそうだ、あれはきらめきだったんだと適当な道路の上で急に理解した。さみしくて、せつなくて、うれしくて、いとしい。

 

ラララ、総てに祝福を。愛を。気にくわないやつにも愛を。全部が嫌でやっていられないときには震えてろくにものも言えない唇から呪詛の雰囲気を。でも概ね、やっぱり愛を。こんな風にしか生きられないんだろうとは思う。いつも祈っている、誰の何をどんなものに祈っているのかはわからないけれど、この静かに澄んでいる満ちた思いは、やっぱり祈りなのだと思う。受取人はいなくても、わたしは確かにここにいる。

僕らが住むこの星は捨てたもんじゃないでしょ?

完全数はお好きですか。わたしは好きです。

 

完全数は、自身を除く約数の和が自身になる数字のことだ。現在51つが発見されている。

例えば6、6=1+2+3。

例えば28、28=1+2+4+7+14。

その次は496で、その次は……とにかく途方に暮れるような数であることしか覚えていない。

 

さて、今日は完全数の日だ。6と28が隣り合う日だ。完全なのだ、ゆえに当然、わたしの誕生日でもある。

 

そんな歳でもないとわかっていつつ、もうずっと長らくTRAMPOLINE GIRLを聴きながら自分の誕生日を迎えていた。去年、いい加減ガールという歳でもあるまいし、あとはトぶだけでしょ? そう思ってバードメンに変えてみた。踊るロマンの血みどろなんですよ。でも今年、なんだか名残惜しいものがあって、結局、また。揺らいで傷ついて跳ぶんだよ。

 

あ、歌詞に「完全勝利」って入っていることにいま、いま気づいた。ああ、これは曲が呼んでいるのでしょうね、なるほどね。

 

 

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以上を28日に書いて止めていた。土日で海を見に行こうとしたけれど悪天候なので中止してよく眠った。

日暮里から谷中銀座を通って上野に抜けて、随分と大きく葉を広げるようになった蓮を見ながら歩いた。おろしたてのローファーは底がすり減っていないし革がしっかりしているので重たい。情けないような音楽を聴いて帰った。

海には行けなかったけれど、代わりに今年の夏にとびっきりだ、とびっきりに行こうという話。頓挫させたくない、とびっきりに辿り着きたい。

 

 

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わたしの感情はすぐに震える、ワイングラスのふちをなぞったときのように波打つ。そのことは別に構わない、多少息苦しいことがあったとて、鼓膜をぴんと張っておけば美しい音を拾うこともある。見通しのよい聴覚は悪くはない(視覚を曇らすことがあったりもするんだけれどね)。

だけど、これはお願いだ、どうかこのグラスを割らないでくれ。水が激しく震えて小さな嵐のようになることはもう、そのことは別に構わない。だけれどその先、暴力的に凪を、無を、与えられるのか奪われるのか、どちらにせよだ。このグラスを割らないでくれ。

 

今日歩きながらふと思った。君に気を遣っているんじゃない、わたしが嫌な感じを味わいたくないのだ。納得をしたい、どんな通し方があるにせそれぞれが矜恃だろう。

 

 

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頬に触れる湿気を含んだ髪はめちゃくちゃに跳ねている。撫でてくれ、もうめちゃくちゃに。

Happy Birthday to me. まだ生きているね。大丈夫、悪くないだろう。

じっとみつめている

叫びそうになる日がある。頬の周りが固くなって動かない、叫び出したいのに声が出ない、身体は震えてひどく汗ばみ、指先の隅々まで不安が鋭く走って、肌を裂けばようやく叫びになるような、そんな日。

息を呑んでひとつも漏らしたくない日がある。肺に侵入してきた空気を取りこぼしたくない。身体はひどく寛いでいるのだが力の入っている瞬間もあり、そんなことより内側で感情が、景色が、熱が、ぐらぐらと、言葉が入ってくることが嫌でなくて、詩が煮えて愛おしくて苦しい、押し殺して震える吐息を漏らす。

 

 

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先日滝本晃司の弾き語りを見てきた。彼の持つふるえるようなロマンチシズムと平常ではないまなざしがとても好き。

 

「初めてのキミを見つめ落下」

「今日は夏の前日 ひどい夏の予感がする こわくて眠れない 赤い夜が続いてる」

「君はこっちを向いたから横顔はどこかへ消える」

「終わりの向こう側の窓辺で目を閉じているのは新しい遊び方? それとも新しいロマンス?」

「笑うより簡単だから泣くよ」

「ねぇ暑くないの? 寒くないの? 悲しくならないの? ざわめきにふるえが止まらなくて こわくないの?」

 

噎せ返るほどの詩情、焦点の合わない視点の動き。ああ、本当に好きだと思ったのでした。曲先だという話も、歌うことを稼業にできて幸せと話す姿も、とてもよかった。発声に不安になるときもあるけれど声も本当に良くて、あと彼はギターの音のまろやかな湿度の高さがとても素敵、いい音をしているなと思います。ピアノも気持ちよかったな。

 

 

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仕事のあと、勤務地から住宅地を30分ほど歩いて商店街に出た。知っている範囲では過去に行ったことのない商店街で、焼き立てのパンを買って食べた。そこから更に1時間ほど歩いて新宿に出て、電車に乗って帰った。なんてことない平日の小さな贅沢だと思った。

本を歩きながら読む癖は小学生の頃に身についた、明るいうちに出歩くことが減ったので最近は頻度が随分減ったが、久し振りに本を開いてみたら妙に安心した。不思議なのだけれど、歩きスマホよりきちんと周りが見える。そのことに気づいたとき歩きスマホのこととっても怖くなっちゃったんだよね。

 

歩きながら、たまの「レインコート」を聴いていた。今まで何度も聴いたし、なんなら先日も滝本晃司が目の前で歌った。聴き始めた頃は特別熱心に聴いた記憶はないのだけれど、ここ数年になってこの曲のことがどんどん好きになっている。元々三拍子が好きなのもあるし、マンドリンの音の気持ちよさもあるだろう。でも。

何度目かの再生を聴きながら、はっとした。

 

 

ぼくは雨の中にいるよ

傘をさしてじっとみつめているよ

6月の水たまりの上で

 

 

「じっとみつめている」、その緊張感。雨の中、水たまりの上、傘をさす、みつめている。ここだ、このまなざしの強さだ。

 

ずっと彼のまなざしのあり方が好きだと言っていた。「こっちを向いたから横顔はどこかへ消える」、そういう視点でまなざすことがとても美しいと思った。奇をてらっている風でもなく、彼からしたら世界は本当にそのように捉えられているのだと思えるような自然体で、美しい眼だと。

でもそれだけではないのだと今更気が付いた。シンプルに見つめるときの強さ、それは集中力や緊張感、深度といったものだけれど、「じっとみつめている」、ただ見ているだけ。押し切るほどの視線、結ばれた口、彼はとても、いい。

 

 

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もっと詩に触れたい。抽象に触れたい、気が触れるまで。できればそのように。

くちびるをみがいて

友人に会うまで時間があると思っていたところ「暇ならどう?」と友人、「ok」とわたし。友人に会い更に友人と合流したのち、友人と友人に笑って手を振って友人に会い、そして友人と別れた。どうにも傷ついたような気持ちになっていたので、「寄り道してから帰る」「こんな時間から」「おやすみなさい」「おやすみなさい」、友人と別れて5分10分、遅れて苦しい感情が肉体に宿る。新宿駅。ひとの顔が一様にこちらを向いて改札に濁流。涙が出そうだった、人の流れに逆らって地上。友人と友人に再度落ち合った、「こんな気持ちで帰りたくなくて」「短い時間で何があったの」、何があったんだろう。自分でもよくわからないけれど、傷ついたような気持ちになっていたことだけはわかる。

 

 


彼女は言った、「自分のことを見つめ直さざるを得ない時間が今月不可避的に続いていてね、そして思い出しちゃった、自分は元来強気で喧嘩っ早い性質だったんだよね」、そして続けた、「自分は自信家だから、総てのひとがきちんと対峙したら絶対自分のことを好きになると思っているし、自分のことを嫌いなひとはつまり、きちんと対峙しようとしないんだなって思うから嫌い」。

素晴らしい、掛け値なしに素晴らしい。買ったばかりだと言う自慢の可愛い日傘の何倍も素晴らしいと思った。

 

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10年は前ではないが、だから7-8年くらい前か、新宿で仕事を終えてから浅い夜の時間に靖国通りを歩いて飯田橋のほうまでよく歩いた。今よりも不安定なところで安定していた情緒は、歩いているとすぐに乱れた。口癖は「神様を惨殺したい」。

いまでもそう思うよ、どうしようもなく神様を惨殺しないといけない気持ちになる日がある。乱暴で抽象的な言葉だから口にする頻度はかなり減った、でも言わないだけ。これに変わる言葉が見つからない。自分以外に向く唯一の明確な殺意、大切なわたしの殺意。

 

 

 

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例えば、「君のことをもっともっと知りたい、そしてわたしのことも君に知って欲しい」、せめてそんな風に言ってみればよかったのかもしれない。

打ちのめされたような気持ちになったのはわたしの勝手だ、素直に傷ついた顔をしなかった(かもしれない)のもわたしの勝手だ。でも、その言葉をとても哀しくて辛いものに感じたこと、知って欲しい。傷つくからやめて欲しいわけじゃない。ただ、わたしも傷つく。そういうことを知って欲しい、としばらく経ってからようやく思った。

 

 

 

血が流れている。続く雨天もあいまって頭蓋骨の中から手先足先まで柔らかく重たいものがみちみちと詰まっているようだ。雨の音がこめかみを叩く、ノックノック、らんぼうは、よして。

安らぎを待って草臥れていこう

 

これは昨日読んだ本。本屋で見かけて手に取り、最初の段落を読みこれは好みな気がすると詩歌を手に取るように読んだ。

 

レプリカたちの夜

レプリカたちの夜

 

 

ゆらぎまくる自我、ブツ切りのようではっきりしないシーンが連なる、混沌とか支離滅裂を愉快なかたちに折り畳んで焼いたパイのよう。舞台設定は夏で、隙あらば日差しの描写が差し挟まれる。夏に気を違えてしまう癖を持ったわたしが6月に読む本としてあまりに最適だった。とてもよかった。

 

 

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淡く甘い苦しみであればよかったのに、気づいてしまったら強い感情で吐きそうだ。わたしはわたしの矜恃で生きたい、醜い発想をしてしまったという自覚はある。君は君でしかない、誰かに重ねたりするのは土台おかしい話なのだ。

 

わたしには、特に2008-09年頃の記憶が曖昧なところがある。朦朧と横たわっていた日々。理由ははっきりしないけれどおそらくはSSRIのせいだろう、そういうことにしている。最近、そのおおよそ10年前の記憶と記録がいまの足元に繋がるような感覚を覚えていて、まずいな、困っていないけれど少し不安だ。

10年前の日記には具体性がまるでなかった、抽象に次ぐ抽象。少し前まで「日記を書いて、記録を残して」と思っていたはずなのに、いまその抽象がそのままつるんと飲み込めてしまう。

 

オーバーラップ!

 

あの頃うまく想像できなかったかもしれないが(というより1年半前の自分でもギリ想像できていないだろう)、フルタイムで働いている。どう思う? 関係ないね、オーバーラップ!

 

あらゆる過去がわたしを篭絡してゆく、足元から、あるいは肋骨に滑り込むように、または鼓動のひとつひとつに触れているようで、当然気も触れるようで、叫び出しそうな毎日がゆえに、文字を書きなぐる回数がわかりやすく増えている。

 

 

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君と会ったことはない。でもいつも一緒にいた気がする、でも実際はほんの数ヶ月だっていうことは、ろくに残してこなかった記録からわかる。記憶からはわからない、ただ「いつも」、いつもだった。

会いたかった。たぶん、その思いは探せば見つかると思う。曖昧な記録にも書き付けてあるよ絶対、確信できる数少ないことだ。

君とできなかったことを、他のひととできるわけがないのに。会いたかった。

 

 

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「ここにいるのがわたしじゃなければよかったのにね」そういう申し訳なさと羞恥心、消えてしまえばいい、わたしがいなくなること以外に本当はあるのか? そんな妄信、いや真理だと思えてしまっているから困っている、さすがにレンズを挟まないと生き苦しい程度の認知の歪み。

でもわたしは「ここにいるのが君ならよかったのに」なんて思っていないわけで、Aの矜恃とBの矜恃はそれぞれ異なりどちらも美しい。でも、「わたしでごめんなさい」の念は遠浅の海の波、気づくと足が浸っている。あんなに遠ざけたと思っていたのになあ。

 

「君は君として美しい」、例えばそういう姿勢を貫いてみるのはどうだろう。「わたしはわたしとして美しい」、そう思うよりは遥かに簡単な、そもそも至極当たり前のことだ。その当たり前のことを、自分に適応すればいいだけなのにね、どうしてわざわざ生きづらい風に認知を歪めているのだ痴れ者。

でもねえ、同じセリフを自発的に求めることはやめにしてるんだ、他者に依存してたまるかよ、自分に与えてやる、欲しい思いを強く思ってやる、逃げ切りでも思うしか。そう思うしか。

 

 

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外は夏みたいで、ここは6月で初夏で、6は完全数であるから毎日が完全であるはず。毎月6日と28日は完全の日。日差しの音が聴こえてくるようだ、いくら耳を澄ませたって君はわたしと同じ音を聴かない。わたしもそう、君と同じ音を聴かない。聴きたいと望んだって聴けない、閉ざされている。

違う音を聴いている。

誰も。全員。

気が遠くなる、自分も遠くなる。

 

わたしが誰でも構わない、せめて自分の聴いている音が聴こえたらいいなと、冷房でひえた耳たぶを指先で暖める。