ドントストップデレデレカムオンファイヤーラブ

 

最近はレパートリーにない料理ばかりをしている。見切れ品ラックで見かけた野菜を買ってからどうするか考えているからだ。切ったりして火にかけて放っておけばかたちになるのが楽しくて、ぼうっとしている。

昨日は見切れ品のセロリ4本(100円)で3品作った。きっとこんな感じにしたらまとまるだろうと見当をつけ、ひょいひょいと調味料を加えていく。他のひとがどう評価するかはわからないけれど、わたしの舌には馴染むから。

文章をいくら書いても腹は膨れない。ごはんはえらい、作れば食べられる。でもごはんをいくら作っても感情はどうにも変化しない。

 

昔、どうにもならない夜には何かをみじん切りしたり、貝を買って砂抜きを見ていたりした。健気にぷつぷつと砂を吐く貝は自分の傍にいてくれる気がして、いのちの健気さに泣けてしまう。夜のさみしさに何度も苛まれ、朝が来るとちいさな二枚貝を胃に落とした。これから死ぬとわかっているのはわたしだけで、貝はただ今いる場所で生きていただけだ。健気だと泣いている自分の傲慢さが嫌になる、だけど胃に落とした。自分の傍にいてくれるね、と念を押すように啜って啜って。

 

とりあえず、じゃあ、オイスターソースを絡めて炒めてみよっか ベーコンまだ余ってる

 

以前、旅行にホームビデオを持っていき、友人とはしゃぐ一部始終を撮って映像にまとめた。意図したわけではないのにほのかに水曜どうでしょうみたいになって、なるほどこれは編集も楽なのかと作りながら思った。またあれを作ろうとしている。

つまり文章を書く以外のことをする必要性に駆られていて、文字を扱えていない。タイルをなぞって滑りの悪い手触りを愉しむ程度のことをしている。弾きなれた練習曲のように吸い寄せ合う感覚が希薄になってしまった。もう少しわたしはわたしと話さなくてはいけない。少なくとも古畑任三郎を見始めている場合ではない気もするが、だけど見たことないからね、見ます。

 

眠りに落ちる寸前、うわごとのように繰り返した言葉が本心なんだとしたら、こうやって書き連ねる文章ってあんまり意味がないと思う

もっと裸になって 塩と砂糖を軽く揉みこんで少し置いておいて

 

煮込み料理を作っている間、別のことをすればいいのに何か作れないだろうかと探してしまう。
たとえばいまは人参を余らせているから、何が作れるのかな ア にんじんしりしり食べたい

 

料理の名曲と言えばボクチャーハン

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あと、やっぱバカサバイバー好き うたって これは普通におねがいです

ゆ・わ・ヌ

 

先の土日月は酔っ払い集団を数日にわたって束ねる用事があり、ド疲弊していた。

当欠カマすやつ、2時間寝坊するやつ、新幹線乗り過ごすやつ、旅先で携帯電話落とすやつ、帰りの新幹線の切符見つからないやつ、えっとせっとら!えっとせっとら!えっとせっとら!アンコールは鳴りやまないっし、挙句の果てには世話した酔っ払いに怒鳴られる!そこで疲弊の糸が切れ、大変賑やかで華やかな場で泣いてしまって終わる。

むやみとラグジュアリーな部屋で、一面鏡張りの浴室で、自分の身体を見ながら長く長く風呂に入った。

 

人生でこんなに疲れたことはなかった。もう一歩も、携帯を持つことさえも難しい疲労。

空腹感もわいてこないけれどそれでもなにかと思って身体を引きずって食べに行ったラーメンがありえなくおいしい。一口ごとに脳天まで震えるほど突き刺されるようにおいしい。身体がもうおかしい。

布団に横になったら「気持ちいい」では収まらない、もうありていに言えば強い快感が身をゆする。何をしても身体が大げさに快楽として受け取るので、これはもう世界とセックスだな~と思いながら過ごして火曜日、変わらず仕事。さすがに動けなかったが素晴らしいデイリーダブルも見たし、水曜は日付が変わる前に意識が切れて8時間寝た。寝るだけの体力がようやく戻ってきて現時点で木曜、やっと回復してきたところ。まで書いて書いたことを忘れた金曜、もう終わりである。嬉しい。それだけの日記とですらないぼやき。

 

日記らしい日記を書かないと日々がぽろぽろ零れ落ちてしまう。

中島健人とハイタッチした話とか残したほうがいいですか? 別にいいですか、そうですか……。

 

 

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水滴がついているみたいでずっと見てる、見てられる。

理不尽に怒鳴られて疲弊する身体、風呂場はぐるりと鏡張りだったから自分が入浴する姿がよく見えた。どんなメイクラブホテルよりよっぽどだよ、そう思いながら水滴が絡みついたような指を見ていた。指を見ている君を見ている見せている。

ダイヤは劣化するんですか、ダイヤでできた剣は砕けないんですか、劣化しようが砕けようが構わない話ではある。わたしの胸は何度もぐちゃぐちゃと搔きまわされた。あの気持ちの悪い不協和音たち。

(和音に「たち」は変だろうか、和に含まれる複数形のきざし)(複数の不協和音が連なる場合は問題ないか)(でもあれがひとつの不協和音なのかひとつの不協和音なのかそういえばわからないし)(わおーん)(これはシンプルにいぬの遠吠え、墓を持たないかもしれないいぬたち、花を添えるいぬがいて、カレーを添えるはむがいて)

 

あと何回、わたしの胸は圧し潰されるんだろう。

春

 

2月は短すぎるよね。だけど28日できっぱり終わるというのはたまらなく美しくも思える。首が落ちる椿のよう、断末魔もなく潔く、結局のところ完全数が好きだというだけのことなのかもしれない。

 

昨晩は数少ない更新を楽しみにしているブログが2つ更新されていて、どちらのタイトルも「春」だった。

ああ、春なんだねと思う。
春は雪が解ける季節、死体が見つかる季節、ふやける季節、うっすら腐って肉を削ぎ始める季節。そういうタイプのイメージばかりで嫌になる。

森山大道が撮り下ろした桜の写真集があって、その写真集には安吾の「桜の森の満開の下」1編がまるまる添えられている。あのざらっとした桜の写真集を今年も見たいな。桜が咲くまでもう1ヶ月をきっと切っていて、わたしたちはそろそろ冬の顔をしていられなくなる。連続で5回とか平気で飛び出すくしゃみ。

 

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ヴィジュアル系のライブに出入りするようになっていくらか経つが、わたしが初めて行ったその辺りのバンドの解散の報。いつだって解散商法だよ~って笑っていたバンドがどうも笑っていなかったらしくて、現地でその発表を聞いていた君が言うのならそうなのだろう。

振り回していたら壊れてしまったジュリ扇を新調しようと思って放置したまま春が来るそうだ。感傷に浸ることを赦されている気はしない。舞浜楽しかったな、あまり映像作品を見なくなった今だってあれはちょくちょく見てしまうよ。

 

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暮らしのかたちが変わることとなって、住処を変えないと家賃を払うので精いっぱいだなと判断したため、引っ越すこととなった。住み慣れすぎたこの街を出て、既にすっかり馴染んだ街に暮らす予定。通勤時間をすっかり消滅させるため電車に乗らずに済む生活となる。そんなの小学生のときぶり。

満員電車は嫌いだけれど移動中に聴く音楽が好き、乗換駅で気まぐれにウィンドウショッピングをするのが好き、それらが消える生活は自分の一部を失うようで怖い。そして住まいに馴染んだ頃にまた引っ越すことまで決められている、仮住まいとしての申請しかしていないため。満員電車のない生活に慣れた後に戻るのはさぞ辛かろう。

 

信号が変わる。

 

結局ひととの相性って言葉の距離感だと思った。あなたとわたしの距離感ではなく、あなたと言葉の距離感と、わたしと言葉の距離感。それが“ハマる”と安心する。“ハマる”と感じるために必要なのが近似値なのか色合いなのかはよくわからない。距離感を定量化する手段はないように思う。

 

身体と言葉の距離感
感情と言葉の距離感
思考と言葉の距離感
当人と言葉の距離感

 

全部違うと思う、身体と言葉の距離感が近いからってその当人と言葉の距離感が近いとも限らない。身体のどの部分が饒舌かみたいな話で、足が速いひとが泳ぐのも得意とは限らないし、運動神経の悪い筋肉質なひともいるよね。

そういうことを考えていた形跡としてのメモがあるけれど、どう展開していきたかったのかにいまのわたしはもう興味がない。

 

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「どうにかなる、そう思うしか」

 

そんな取るに足らないありふれた言葉、普段はすっかり忘れているのに時折心に固く浮かぶ。ぷっくり生えてきて新芽を見つけたときと同じ気持ちになる、当然の顔をしているものだから。雨の下北沢で君が呟いた。

幽玄十港

 

昨日、突然、足の裏を地面につけると楽だということに気づいた。

いままで親指の付け根とかかとの内側のみを地面に接地させて立ったり歩いたり走ったりしていたのだが、ふと小指側を接地させてみると突然腰がすっと伸び、起立時や歩行時に使う筋肉が変わった。もしかして間違っているのかと思って調べたら案の定らしい。この間違えた歩き方でも何時間でも困難なく歩けてしまっているし、一般的なひとより歩くのが好き。間違ったままで好き。なんだかまんま自分みたいだな、と思った。間違っていても困ってないしそもそも間違っていることにも気づけない。

でも腰から太ももの裏までゆっと伸びる感覚は気持ちいいから、しばらく意識してみようと思う。身体はおもちゃだ、感情と同様に。

 

今更のように歩行という行為に感動し、身体の動きのいちいちに新鮮な気持ちでいると、初めて陸にあがった魚や、陸を捨てて海に戻った鯨や、最初に空を飛んだ鳥のことを連想した。これはわたしが生んだイメージではなく、彼が好むイメージがすっかり自分になじんだだけで、だから、思い出す曲があることも、当然なんですね。

小学校の頃から「好きな言葉」の欄にはこの曲の歌詞を書きつけてきた。あの頃の3倍の年齢になって、ようやく初めて、その曲を耳に入れることに成功した。ひどい嗚咽が止まらなかった。これは2025年最後の、そして2026年最初のライブの話。

「2011-12年の年越しライブの1曲目がこの曲だった」という話を聞いて、混乱のあまりとりあえずファンクラブに入会した。好きが乗じて嫌いが過ぎて、耳に入れるだけでも激しい嫌悪感を覚える状態が3年は続いていたし、もう相まみえることもないと思っていたのに。そこから綺麗に14年経ったらしい。わたしの人生をいつも正しいものに押し上げてくれる気がする。

 

足裏の感覚ひとつでこんなに発見があるのだから、今年もきっと、スゲーのな。

本年もどうぞよろしくお願いします。

末日のドライブ(電車)

 

振り返る暇もなく31日で、今日さえ休みなく渋谷にいていまは横浜。このまま横浜ではっぴにゅという訳。

 

本年もつらつらと本当のことばかりを書き連ねてきました、という嘘とも本当ともつかない、わたしにも確かめられないことを書き残して、書き残すっていうけどいつだってその瞬間は残す気がひとつもないんだよね。書き残ってしまうならとりあえず匂いが強いといいような気がします。どう思いますか。

 

本年も有難うございました、来年も宜しくお願いします。こぉあぁ