特別なディスなどはやめようとしたんです もう限界です


関ジャニ∞のなかのユニット曲で「YOU CAN SEE」というのがあると教わったのが1年半くらい前の話で、聴いてみたら恰好良かったので好んでよく聴いている。



さすがジャニーズだ、本人が歌ってらっしゃる映像はなかったので、曲提供をなさったシンガーソングライターの方のカバーを。スタイリッシュでとにかくおしゃれ、意味があるようなないような歌詞がまさしく「YOU CAN SEE」という感じ。


あるひとが自らの思うことを主張するとき、それを発言するに至ったきっかけの言動が確かに自分にあるとわかった途端、そしてそれがわたしの意見と合わないものである場合、物凄く怖くなってしまう。よくある話だ。それをディスだと捉えるのは明らかに過剰であるし、悪意ある攻撃の意図があるわけではないとわかっている。わかっているけれど、悪意に見えてきてしまうのが脆弱な神経に良くない。不必要な過敏さは総てを痛みで捉えるだけだ。
わたしには、あまり、大きな声で主張したいことがない。
こういう行動が不快だと思うことも、あまり、ない。思いつかない。
もちろん心が広いわけではない、ましてやこれが優しさであってたまるか。そういうことじゃない。
「無関心では」という指摘をなされたこともある、それに酷く動揺して思い悩んだりもしたけれど(すぐ思い悩むよなあと感心する)、少なくともそういう訳ではなさそうだと自覚している。自覚できていない残酷さなのだとしたら、恐ろしいことだとは思う。


嫌なことを嫌と言えないひと、みたいな言葉は何年も前から散見する。「ノーと言えない日本人」的な。その言葉を見かけるたび、あるいは言いたいことははっきり言いなさいといった主張を見かけるたび、なんとも言えない気持ちになる。嫌なことは嫌っていうけれど、嫌だと口に出すほどのことってそんなにない。
これが怠慢だとか諦念だとか、そういう類でくくられる念だったら、それこそ嫌だと大きな声で言ってやりたい自分に。楽をしていると思われているのだとしたら耐え難いことでもある。そこそこ溜飲を下げながらやっているんだよ。溜飲を下げながら?やっぱり言いたいことが?そういう揚げ足取りを延々ひとりでやっていてもねえ。

たまに勇気を出して主張で返してみても、言い訳がましいという言葉の前に潰される。実際に言い訳を口にしたのか自分の主張を口にしたのか、自分でもわからなくなってしまう。小さい頃から親によく言われ





ああ、わたしはいま思春期の焼き直しをしたいのか。したいのか?
すぐに思考が散逸してしまう、ひとりで連想ゲームを延々していられる。わたしが好いている音楽に星から星へと飛びまわるようなイメージを掻き立てるものがあるけれど、その速度や鋭さには随分と劣る程度の明滅で思考が飛び回っている。その実同じところをぐるぐる回っているだけだけれど。


こんなに文字数を使っても、いつも肝心なことを言わないんだよなあ、ということには気づいている。どうでもいい話しかできないという才能を持て余して今夜も音楽を聴いている。