泣きながらあたしは五線譜を探し求めていた。
探し求める、なんていうと五線譜中毒か何かみたいだが、本当はその逆。
あたしは五線譜が嫌いだ、どうしようもなく嫌いなのだ。
五線譜を見るといやな音を思い出して眩暈がする。
ずっと理由がわからなくてくらくらしていたが、最近ひとつ思い出したことがある。
トリップ。
小学生のときのヴィジョン。
後ろで鬼ごっこだかプロレスだかが白熱していて、誰もが後ろを向いて笑っていたのは覚えている。そうだ、ほんとうは彼もその常連で、いつもなら先陣切って誰かに消しゴムを投げつけに行くようなやつだった。
でもなぜか、その日の彼は参加しなかった。
珍しいこともあるものね、とませたことを考えていたのをよく覚えている。
突然、彼は緩慢な仕草でたちあがり、おもむろに右手で黒板に触れた。
あ、とあたしは思う。あ、もしかして。
クラスメイトたちは当然気付いてなかった。短い休み時間を謳歌していた。
そして、そう、そうだ、彼はいちどだけ目を閉じて深呼吸をした。
目を開けて唇を舐めると、そっと五本の爪を突き立てて、迷いなく、ゆっくり、右へ引いた。
小学生の教室なんて単純で、そのあとは阿鼻叫喚である。
耳を塞いできゃあきゃあ言う女子と(その黄色い声のほうがうるさい)、颯爽とプロレスを中断して集まってくる男子(殴りあうときの鈍い音は棚に上げている)。
あたしはといえばどちらにも馴染めず、ただ傍観した。見ていた、全てを見ていた。
誰よりも間近であの音を聞いいていた彼が、少しも取り乱したりなどせず、酷く冷静な眼をしていたことが忘れられなかった。
つんざく音。
ありがちな名前のばかな男子が、黒板を引っ掻いていた、それだけだ。
ただそれだけなのに、その光景が目に焼きついて焼きついて離れない。
ああそうか、あのときからあたしは人を信じるのをやめた、動物的直感というやつだ。
そして、なるほどまったく、今気付いた。
あたしはきっと、彼のことが、好きだった。
五線譜を見るたびに思い出すんだ、
あの血の気の失せた指と、太くていびつな五本の線、爪のあと。うらおもてとか、狂気とか、ガラスとか、なんだか小学生らしからぬもの全てを。
普通で居られなくなってしまったんだ、全部彼の所為なんだ。
頭の中にあのぎらぎら冴えた音が響いていた。
そう、あたしは今すぐ五線譜を探さなくてはならない。さてなんのため?楽譜を書く予定があったのだっけ、いや違う、作曲?まさか、そんなことしたことないじゃない、あれ、なんのため、なんのため。どうしても必要だったのだ、だから泣きながら探していて、あれ、どうして、そもそも五線譜を買ったことなんてあっただろうか、あたしは一体いつから五線譜を探していたのだろう、今日は何月何日何曜日だろう、ああ、もう。
弦が一本切れたので、とりあえず楽器屋さんへ行くことにする。