空学


それは辛いだろうなあって思うのよ本当に。わたしが痛みを受けることで報われるひとがいるならそれでいいよ。誰も助けられなかった。刺し違える覚悟でいる。誰も助けられなかった。
いつかあのこが救われて、依存がとけて、そのときわたしは堪えられるだろうか。
たぶん一生引き摺られる。振り回される。刺し違える覚悟で、いつか刺し違える。愛してる。愛されてる?愛してるから問題ない、問題ないから安心してここで立ち止まるといい。愛してあげる、許してあげる、誰もが咎めても、わたしだけは君を許す。愛してる。
こうやって呪詛を、呪詛を。ラララって歌ってみる。ララ、ラララ。歌うより簡単だから、呪詛。



この間見た夢はなかなかにサイケデリクだった。
ひとがサッカーの試合してるんだけど、みんな顔の部分が大きな手のひらなの。首から大きな手が生えてるの。首が手首になってるの。悪くない夢だった。
たぶん好きでコラージュ画像を集めてるからだと思う。滑らかに動くgifじゃないコラージュ、綺麗だった。いつか再現できたら、拡張子はymeにしよう。夢。



わたしの前で膝から崩れ落ちるひとがいて、そのひとを抱き締めて優しくしながら一緒に泥んでいくイメージが昔からあって、救われるってどういうことなのかなって思う。

みんなが幸せになりますようになんて鼻から不可能だ。誰かと幸せになりたくなんかない、大切なひとといっそ不幸になりたい。不幸ななかで、お互いしか見えなくなって、目とか潰しあってもラララって歌うくらい余裕があればいい。君だけあればいい。だからいつも、大切なものを本当に大事にできないのかもしれない。


なんて全部嘘だ、本当は幸せにしてあげたい、笑わせてあげたい、幸せになりたい、わからない、ララ、ラララ。


確実なのは、わたしに愛されたら草臥れてしまうだろうというところで、わたしも草臥れてしまうだろうということだ。一緒にいたらつい不幸にしてしまうから、だからわたしのことなんて切ってしまってくれと願う一方で、本当に切られたら途方にくれてしまう、自分勝手だ。



と、いう作り込まれた矛盾には心理学・精神医学的に名前がつくらしく、その言葉を見るたびにわたしは動悸が収まらなくなる。病気ではないよ。でもたぶん宜しくないものだとは薄々わかってんの。ごめんね、ごめんね、誰も助けられなかった。怯えていた傷だらけの細い腕が力を振り絞ってここまできたのに、わたしはそれを折ってしまったんじゃないかって、



そう。
そうやって、後悔し痛嘆し、鈍痛を楽しむのは、たぶん自己憐憫のたぐいなんじゃないかって。楽しい楽しい自己満足じゃないかって、ラララ、思うわけよ。死者さえも慰みのツールにしてるんじゃないのかね。


と、いうのすら自己防衛のために作り出した思考ではないかと思うとぞっとする。




酷い喧騒と静寂が交互に来て、本質はどっちだかわからないまま。取り敢えず愛してるって言う。ラララ、歌ってみる。ぶち壊したい、壊されたい、守れる?守る。



わたしは自分を、酷薄な天使だと思っているのだぜ。


なんてことをわりとデイリーに、例えばロコモコを食べてマルイを冷やかしてきた帰り道の埼京線でぼうやりとポップスを聴きながら考えているんだよねえ。まあたまには書きしたためてみようと思ったまでですよ。明日は病院だよ面倒くさい!