彼の真空管について

ののこちゃんがピアノを弾いてはいるが、きりくんは外の雨に気をとられていた。
少しばかりずれている彼は、でもののこちゃんのピアノを知覚する音感は持っている。


「きりくんリクエストのショパンじゃないの」
「本当はドビュッシーのほうが好きなんだ」
「あたし、あんなめちゃくちゃ嫌い」
「ののこちゃんは浪漫派だものね」


ののこちゃんが考えるように口をつぐみ、また話し声が絶える、沈黙。
きりくんは少しずつ雨音が強くなっていることに気づいたが、きっとショパンに夢中なののこちゃんは気付いていないだろう。

沈黙の中身は全て言葉、だなんて言った詩人もいたが、ここの沈黙の中身には雨音やピアノの音がある。つまり外では無数の言葉が降っていて、ののこちゃんは指で言葉を奏でているのだ。なんだかそれはとても愉快だな、ときりくんは口笛を吹こうと唇を湿らす。
それだけ夢中になるって素敵なこと、そんな風に内心彼女に呼びかけながら。


「でもね、プログレも嫌いじゃないわ」
the Policeとか、そういうの?」
「大好き」


ワルツの叙情的な速引きをきめながら、きりくんはいつもどこか自意識過剰、とののこちゃんは思う。いつもぼんやりしてるのにどこか殊勝で、彼女はそれがこわいとすら感じていた。

きりくんはひとつ大きくあくびをする。頬を緩めてぽかんと口をあけたまんまだ。
彼の横顔を盗み見した彼女は、その穴の暗さに思わず手を止める。

アンティークのスピーカー、そう、まるでアンティークのスピーカーみたい。
ふと彼女は溜息をついた。
ああそうね、だからなるほど、彼はずれてるし、間違ってるし、そのくせたまに恐ろしく正確すぎるほどに正確なのでしょう。


「あれ、ショパンは中止?」
「もういいや、それよりさ、Pink Floyd弾くから歌ってよ」
「ピアノでかい?」
「あたしをなめてるでしょ」


いちばん最初に頭に浮かんだ曲を弾きながら(彼女の音感は絶対だ)、さて、これはどのアルバムに入っている曲だったかしらと彼女は少しだけ思考する。
ただいつか見たライヴ映像で、真っ青に染め抜かれていたこと、それだけを覚えていた。

はたして彼の空洞からきれぎれの歌声が流れたとき、ののこちゃんはどうしようもなく、どうしようもない気がした。思いがけない心の揺らぎに、彼女は密かに眩暈を覚える。
それは、名前をつけるにも至らない感情。

アンティークっていうのはいつも、なにか不安なことを思い出させるのね、
そう思って少しだけ眉根を寄せて、

きりくんの単語の発音は、流れるようでとても綺麗だ。