夏、夏、逃げないで。


怖いのは不感症。
夏が終わるというのに、毎年毎年こうやって31日にはこうやって向き合ってるんですよ端末か鍵盤にこうやって。そして何かを奪い去る夏に怯えて生きてきたのに、それが夏で、わたしと夏はこれからもそうやっていくんだと思ってた。
つまり、夏が終わる痛みがいま、どこにもないことが怖い。
別にまったくないわけじゃない。前は切実で痛切で引き剥がされるような心持ち、無条件で泣き出したくなるような衝動が強かっただけ。それに慣れてしまっただけなんだと思う。


痛みに慣れるということ。痛みに慣れることなんてないということ。その怖さ、それを当たり前に消化すること。そういうひと。
季節や月に対して剥き出しだった粘膜が、柔らかな粘膜が、痛いって痛いってしくしく泣いて、それを宥めるのが上手になってゆく。


夏に見放されてしまったような気持ちだ。
小学生の頃の夏って不思議なものだった、愛知に行って(生まれが愛知の田舎の方)田んぼをうろついて、自由研究の実験をしたりして。そう、わたしは自由研究が大好きだったな。中高(辞めるまで)はオーケストラの合宿が4泊5日であったし、やっぱりなんとなく思い入れがある。
夏が「都さん、あなたにはもう夏と思い出を結びつける術はありませんよ」と笑っている気がするのは、今日は具合が良くないからだよ。


このあとはここ数年の定番、「夏/倉橋ヨエコ」を聴きながら夏を超えるよ。
夏を超えてゆく。わたしはどこまでもどこまでもどこまでも伸びやかに季節を歩く。優雅なステップで跳ぶわよ。