はるにあう

 

スコーンふたつとウバのティーラテを胃に収めて、羽田空港へ。初めて東京モノレールに乗った気がする。暖かいかと思ったけれど意外と冷えた春の日だった。セーターを着てよかった、もう少しぬくといものを履けばよかった。晴れていたら履きたかった靴があったけれど、今日の雨は好きな雨だったから嬉しかったよ。


自販機に110円を挿していろはすを受け取る、出先でミネラルウォーターを買うことは滅多にないからたまに買うと少し緊張する。その緊張を開封したばかりのいろはすで軽くゆすいで飲み干して、だらだらとソファーに座っていた。羽田空港の中には神社があると初めて知った。

 

好きなものは何度でもかけばいい、と言う。わたしもそう思う、好きなひとの作ったものを追っていて複数回登場するモチーフを見つけるととても嬉しくなるしね。東京で個展をするのが夢だと話していた、わたしは彼女の絵が心から好きだから応援している。あなたから頂いた絵は自分のアイコンみたいに掲げているよ。

消える背中を見送り切ってから、お気に入りの空港の歌を繰り返して何度か聴いた。空港に来るのは去年の夏ぶり、そのときは午前だった。よく晴れた日で、炎天下で、じりじり焼かれながらどこかに行ったりここに来たりする飛行機を見ていた。

 

お酒を飲みにもう一度街に戻りたい気もするのだけれど最近の食事の苦手さを鑑みて素直に帰ろうかなと思いながら端末の液晶を撫でている。

わたしも場所になりたいなあと思いながら留まるひとのいない場所を通過する、通過するのはいつもにんげんばかり、感情や思惑を詰んだにんげんばかり。
飲み屋のカウンターに立つのが好きなのは、場所になった気持ちになれるからかもしれない。最後まで残って店を閉めるのはわたし。一瞬だけ来るひともいれば最後までクダを巻くひともいる。でもひとり残らず全員席を立つ、通過する、またどこかへ行く。
誰も足を留めない、目が合わない。それでもたまに立ち止まるひとがいるから、結局通過するとしても。

 

いまは炭水化物をうまく摂れないからスコーンふたつはかなり頑張ったほうだ、お昼ごはんの時間帯に食べたのにまだ胃が重たいって京急のなかでおなかをさする。トンネルを抜けて視界が開けたらもう暗かった。ねえ、今日は何をして過ごそうか、何か書く? それともずっと歌ってようか、鼻が痛いくらいのミントの香り、生活に馴染む平易な文章、東京という街。

「美しい自然はもう嫌というほど見て、すっごく綺麗な湖とか誇張じゃなく500回とか見たよ、だからもうよくて、だって見てるとすごく全部がどうでもいいっていうか自分とか意味とか漠然としてくるから」

彼女は札幌の美しいマンションに戻った。ちょうど暗くなったから景色の良い頃合いだろうと思った。

 

ところでわたしは夜に東京着くように乗り込む飛行機がとても好きだ。札幌からなどだと尚のことよい。街の灯りが少しずつ増えてゆくさまを眼下に眺めながら聴く音楽が、微妙だったことなど一度たりともないけれど、それでも強いてお気に入りを挙げるならceroのContemporary Tokyo Cruiseかなあ。
眩しすぎる街、「いかないで、光よ わたしたちはここにいいます」、光まみれに汚れてゆく、着陸する衝撃と堕天する天使の感じって似てるのかなあとか曖昧なことを考える、わたしは堕天したことのない翼。

 

新潟ままかり発見伝

 

漫画やアニメのバトルシーンでたまにみる、主人公が自分の武器や庇っている人物なんかを一旦放り投げたりして、身軽になった隙に敵に攻撃、何事もなかったかのようにまた武器や人物をキャッチしてフィニッシュ、みたいな場面が好き。大胆かつ緻密な最短ルートといったところがロマンですよね、ときめく。

あの大切なものを放り投げる間にカタをつけるやつ、わたしもやりたい。やろっと。あなたもやってよ、だって見たいんだもん。

 

 

 

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年に2-3度ほどすれ違う友人がいて、いつもなぜか怪我や病気をし、時にはカジュアルに生死を彷徨っている。白血病をやったときなど痛快だった、気が滅入って仕方がないからと常にアロハ服にサングラスで病室にいた。体格にも恵まれているのでかなりの輩感。それで安静にするのがつまらないとこっそり筋トレを続け、退院後はなぜか入院前よりマッチョになって戻ってきた。
しかし、思えば1年以上すれ違っていなかった。ふと気になり生きているかと声を掛けてみたら、6月頭に出産の予定があるという。

 

「新しい動物飼うときとやることはあんまり変わらなくて、まずは適切な温度と湿度を調べたら大体ヤモリと同じくらいだってわかったから特に環境の準備は難しくない」

 

麻雀牌がぎっしりプリントされた柄シャツ、なぜかますます筋肉質になっていてもはや巨体だ。少し触らせてもらったけれどどこからが肩なのか大きすぎてわからなかった。

「自分は女の身体だけど性自認は男性っぽくて、それでAセク気味なところがありつつ、嗜好はゲイだからうまくはまった気がする」と愉快げに話す、「どうして10年付き合ってるのに同居も結婚もしてくれないの、って泣かれたからしゃーないかってねえ。周りには結婚とか出産の概念あったのって驚かれまくってる」。

身重の女なんぞ知らんと言わんばかりに会社から放り出されたという、ブラック企業を数多乗り越えてきた友人は笑顔で中指を立てていた。暇になったし、近所の木材屋で端材貰って日本画描いたら面白いかなと思ってるとのこと。

 

 

 

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わたしはあくまで楽しく生きるつもりでいるし、絶対に幸せにしかならないように出来ている。

このたびはご清聴どうも有難う、だらだら話してごめんね。わたくしの知る限りの総てを見回して思うのだけれど、そう、やっぱり大きく間違っていないと思う。「未来のあなたは後悔していない」と言う言葉の心強さを覚えているもの。悪く言われることだけが耐え難い、ゆえに煮詰めて考えてみればこれは全部罪悪感とかそういった錯覚の賜物なんですね。

 

こうやって日記を入力するフォームには、書いてみたけど結局日記にならなかった数行がたくさん残っているのだけれど、「わたしは彼の誠実さを、誠実でいたいという気持ちを疑ったことがない。そもそも彼のことを疑ったことがない、わたしがひとりで不安定になることがあるだけだ。」と書きつけてあるのを見つけた。そうだよ、本当にその通りだ。

たぶん2月あたりに「気が向いたら誠実であることについて話をするね」と書いたっきりだったことを思い出したけど、やっぱりそれはまた気が向いたらにするね。

 


時期は外しちゃったけど、ときめく「桜」川本真琴です。

「かたっぽの靴が コツンってぶつかる距離が好き ねぇ キスしよっか」

「"恋してる"ツアー1998」というツアー名、とても素敵。

暗いならスマートフォンの懐中電灯機能を使えば?

 

余計なことを言わせたらわたしのほうが大分うわてだから、謙遜しないで頂きたいし、それより何が余分かわからないわたしを許して欲しいと思う。そもそも生まれてきたことやいま生きてることが余分だって説もたぶんにあってそれは誰にも否定できない、でも証明もできない。
自分が楽になりたくてひとを使ってしまった、という心地がある。よくない。本当によくない。申し訳ない。

 

また食が細くなりかけている、そういえば去年の4月は意味がわからないままにほとんど食事ができない1ヶ月間を送っていた。原因は未だによくわかっていない。
とはいえ大まかにはまだ食べられている、今日は新潟にいたので少し張り切った。あちらは桜がちょうど満開だった、ぬるい川がたくさんあって心地よかった。

 

中高の講堂によく似た構造の場所で、これは罪悪感なのだという気づきを得ていた。落ち着いて考えればよい、何も起きていない、わたしは楽しくやりたいし楽しくやっている、今だってワンカップを2杯飲んだし。片方はワンカップのくせに660円もするちょっといいお酒だし。しんじょと塩辛をつまみながらハイスピードで帰ってくる。


へなへなと力が抜ける気のするのは、自分の想定しうるどのルートを辿ろうとも、わたしは自分が納得する自分を遂行できないのではないか、と思い至ったからだ。もっと自分を信じていたい、いつも間違う自分に腹が立つ。それが本当に間違いかどうかなんてわからないくせにさ、どう歩いても格好良くならない。
そう、わたしが格好良くなくてへなちょこなのが全部悪い。

自分が歩いてきた道こそが唯一のトゥルー、遠回りでも美しい旅路だと思うのは難しい。でもわたしはこうしか歩けなかった。きちんと、そのときどきで手前の足りない頭で、氾濫する感情で、目一杯考えて選んでいる。つまりさ、結局のところ自分を過大評価しているだけ、もっとやれるなんて思い上がりで、わたし以外誰もわたしに期待していないって話。それはそれで癪。

 


「もっとひとりでやらなくちゃ」と「もっとひとに頼らなきゃ」が混在している。本当はひとりでやりたいのに、頼ってよい相手などいないのに。

こうやって考えるから追い詰まるのはわかっている。もっと追い込まなきゃ、という気持ちもどこかにある。常に二律背反の世界でぎゅうぎゅうと挟まれて引っ張り合われている心地。両サイドに自分が立っている。わけがわからない。ワンカップを2本も飲んだからじゃない? ううん、ワンカップ2本じゃそうそう酔わないよ。

 

意識を逸らし続けよう、みんなでもっと踊っていようよ。それがだめならキスとかセックスとかしよう、お酒飲んで笑ってようよ。笑ってるほうがみんな素敵だってば、ね?

 

 


この曲のジャンプしながらくるくる回りたくなるような開放感が好き、3拍子と5拍子が交互に挟まる浮遊感も好き。PV見たの初めてなんだけれどいろいろ語りが入ってたりするんだね。冒頭、「夢を見てた」で膨らんでゆくさまがいつも鮮やかで光がふわっと入ってくる心地がする。いつだって音楽だけを聴いていた。

そういえば、「涙が枯れるまで泣いていた」といった歌詞を聞く度に、涙が枯れたことはあっただろうかと思う。わたくしの涙腺は随分とタフネス、持久戦に強いよ。何時間だって泣いていられる、迷惑な話だよね。こりこりして美味しいと思うから食べて欲しい。ふたつあるからいっこあげるね。

シュガーの代わりにクリームを


祝いごとの日には、ということでケーキを食べに出かけた。こういった行為が自己満足であることは重々承知しているけれど、伝わらないもどかしさをどこかで晴らさなくてはいけない。わたしにとって今日は嬉しい日、大切な日。おめでとう。

 

言いたいことがあるような、少ないような。こうやって毎日文章を書くことは毒にも薬にもならなくて、ただただ習慣というか、惰性というか。

できればひとを傷つけたくなくて、追い詰めたくなくて、でも結果的に自分の首を絞めていましたよ、お蔭で周囲にも迷惑をかけていますよ、というよくある話。
誰にも評価されないところで行う葛藤が多い、それは秘すれば花といったことでもなくて、知れたところで「そんなところでエネルギー使ってどうするの?」と言われるだけのことだ。自分でもわからない、ただすごく不器用なんだと思う。

 

いつか誰かが気づいてくれる、なんてことは訪れないってさすがにわかっている。それでも褒めて欲しくてやっているわけじゃないからアピールをする必要はないし、第一アピールしたところで決して褒められる類のものではなくて、「どうしてそんなことを?」と言われるのが関の山だろう。

自分を苦しく追い詰めるこの作業は本当に自分のためなのか、と思いながら自分の矜恃の立ち姿を調整している。決して美しくなるわけでもない、なんのために? わからない、潔癖症に近いものだと認識している。
だけど、誰にも認められなくとも、救われたいし報われたいとは考える。何が救いで何が報いなのかは判然としない。


わたしはあなたをとても大切に思っている、ということだけを伝え続ければいいのかもしれないな、と思う。あるいは、自分の考える「大切にする」を実行し続けたいのかもしれない。そういう意味では自分のことなど全く後回しにしていることになるのかもね。
昔から要求を口にするのが苦手だった、欲しいものを言えた試しがないし、ものを渡そうとしているひとに「申し訳ないから」といって断るような子どもだった。きっと今でもあんまり変わっていない。わたしね、ダイヤになりたい。炭素の結合がどうとかなんでしょ、今すぐこの身体を分子レベルに分解してしまいたい。それでね、懐刀になりたいな。

 

感情はおのれの内側から湧いてくるものであるのだけれど、それとは別にどこから絡みついてくるものといった感じもあって、とても制御ができる代物ではないなあと思っている。
感触としては泥濘の中を歩いているのに近い、でもこれがわたくしの基本フォーム。過去も感情も全部この身体に乗っていきなよ、スピードは出ないけど遠くまで連れてゆく、今のわたしが見ている景色のその先まで。悪いふうにはしない、約束するよ。

 

不器用なんだけど、どうか最後まで誠実でいたいとは思っている。君もあなたもお前もわたしも遠くないうちに死ぬし、生きてるってすごい短い時間の話なんだけど、生まれたことに必ずしも意味があるなんて思っちゃないけど、でも超有り得ない現象が起きてるなってことは足りない頭でもわかるんだ。命に大した意味などないからこそ、どうか、命の限りに。

 


それからこれは、めちゃくちゃいけすかない「ハッピーバースデー」です。

 

初恋のパパからまだ手紙来るの?

ゲイの恋人と家を出てから

余計なお世話だけど返事は出したほうがいい

今でも愛してるって書けばいい

それがキミの恋でしょう

 

どれも似ている/けれどなかった

 

新年度らしいことをしたいと思って髪を切った。もう10年以上お世話になっている担当の方だし、最後の仕上げはお任せに。丁寧にヘアアイロンでまっすぐに伸ばしてから綺麗に外ハネを作ってくれた、11月にパーマを当ててからずっともさもさしている自分を見ていたから新鮮な気持ちになった。
淡くパンジーのような色を瞼に塗布する、普段あまり使わない色をメインに据えてのメイク。なかなかいいじゃん!って思ったところで行く場所も会うひともいないから、3時間くらい知らない住宅地を歩いて帰ってきた。
道中、住んでもいない街の図書館カードを作ろうと思ったら条件を満たせていなかった。

 

 

内心はずっとズタズタで生活ができないまま、東京の桜は折返しを過ぎた。こんなにも春だというのに「ふゆのほし」という曲を思い出したようによく聴いている。

 

憶えてますか
僕はただ毎日を 君のかけらをさがしました
冬が過ぎたら 僕のすべてのスイッチを止めて
夢は見れないけれど

 

冬もとっくに過ぎて春の盛りだから、わたしのすべてのスイッチも止めて欲しい。夢なんて見られなくって構わない。死んでしまいたいな、と思う。夏は生きながらにして死に漸近する季節だけれど、春は死体との境目がぼやける季節。曖昧なところが似ているね。

春のぬるい川がとても好き。大きくても小さくても、さわやかにせせらいでいてもドブみたいでも、春のぬるい川は好い。

 
それでもわたしの気持ちにとても近い曲は「有明けの月」だなあ。きみだけがーぼーくーをー。わたしの頭はおかしくて、認知は酷く歪んでいるから、言われた覚えもない「ねえ死んでみたらどう、ほら死んでよ」という音声が様々なひとの声で再生されて、幻聴ではないよ、例えばまるでお気に入りのメロディーが頭から離れないときに似ている。参ってるんだろうなって思う。

春はね、神経がおかしくなる季節ですから、繋ぎ目も曖昧になってね、こうやって変な電波を拾うこともあるんですよ。

 

 

 

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どんな嘘もつかなかった、去年も今年もそう。柑橘系の名前を2つ並べて迎えた終わりをくるりと拾い上げた。わたしの「ん」は拾われないから硬くて冷たく床に落ちるのだろう。うん、似合うと思う。
月の見える方角は南かなあとか考えてもあんまり意味がないけれど、しかしながら南の島というものには漠然とした憧れがある。南中した月を指差して歩いていったら、ふわりと飛んで行けたら、辿り着けるだろうか。

 

「君は誰も見ていないところでも真摯なんだね」という言葉、とても嬉しかった。だからこそ誰も見てなくても、知らなくても、自分の考えうる真摯な姿勢を貫いていたい。それで背わたはもうずるずるになっちゃって神経はぐちゃぐちゃでひとのかたちを保つほうが難しいとしても、最後まで矜恃は持っていたい。殉教に近いよね、本当に死んだらめっちゃウケるけど、まあ人体って頑健だしそうそう死なないし。

嫌になっちゃうよね。もっと楽しくやらなくちゃ、という強迫観念にも似た気持ち。ちゃんとしなくちゃ、走らなきゃ、立たなきゃ、笑ってなくちゃ。違う、本質的に全然違うよ、そうじゃない。


自分の感情の手のつけられなさは自分でよくわかってる。もうあとは暴発させてあげるしかないんだろうな、堰き止めたものが濁ってしまって、もうとてもじゃないけれど胸に留め置けない。
ナイフを入れて切り開いて、嘔吐するみたいにぼたぼた落ちる汚水を見たらきっと気持ちいいだろうなと思う。
ここ、これをよく知っておいて、わたくしはとても醜いにんげんだということを。