どれも似ている/けれどなかった

 

新年度らしいことをしたいと思って髪を切った。もう10年以上お世話になっている担当の方だし、最後の仕上げはお任せに。丁寧にヘアアイロンでまっすぐに伸ばしてから綺麗に外ハネを作ってくれた、11月にパーマを当ててからずっともさもさしている自分を見ていたから新鮮な気持ちになった。
淡くパンジーのような色を瞼に塗布する、普段あまり使わない色をメインに据えてのメイク。なかなかいいじゃん!って思ったところで行く場所も会うひともいないから、3時間くらい知らない住宅地を歩いて帰ってきた。
道中、住んでもいない街の図書館カードを作ろうと思ったら条件を満たせていなかった。

 

 

内心はずっとズタズタで生活ができないまま、東京の桜は折返しを過ぎた。こんなにも春だというのに「ふゆのほし」という曲を思い出したようによく聴いている。

 

憶えてますか
僕はただ毎日を 君のかけらをさがしました
冬が過ぎたら 僕のすべてのスイッチを止めて
夢は見れないけれど

 

冬もとっくに過ぎて春の盛りだから、わたしのすべてのスイッチも止めて欲しい。夢なんて見られなくって構わない。死んでしまいたいな、と思う。夏は生きながらにして死に漸近する季節だけれど、春は死体との境目がぼやける季節。曖昧なところが似ているね。

春のぬるい川がとても好き。大きくても小さくても、さわやかにせせらいでいてもドブみたいでも、春のぬるい川は好い。

 
それでもわたしの気持ちにとても近い曲は「有明けの月」だなあ。きみだけがーぼーくーをー。わたしの頭はおかしくて、認知は酷く歪んでいるから、言われた覚えもない「ねえ死んでみたらどう、ほら死んでよ」という音声が様々なひとの声で再生されて、幻聴ではないよ、例えばまるでお気に入りのメロディーが頭から離れないときに似ている。参ってるんだろうなって思う。

春はね、神経がおかしくなる季節ですから、繋ぎ目も曖昧になってね、こうやって変な電波を拾うこともあるんですよ。

 

 

 

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どんな嘘もつかなかった、去年も今年もそう。柑橘系の名前を2つ並べて迎えた終わりをくるりと拾い上げた。わたしの「ん」は拾われないから硬くて冷たく床に落ちるのだろう。うん、似合うと思う。
月の見える方角は南かなあとか考えてもあんまり意味がないけれど、しかしながら南の島というものには漠然とした憧れがある。南中した月を指差して歩いていったら、ふわりと飛んで行けたら、辿り着けるだろうか。

 

「君は誰も見ていないところでも真摯なんだね」という言葉、とても嬉しかった。だからこそ誰も見てなくても、知らなくても、自分の考えうる真摯な姿勢を貫いていたい。それで背わたはもうずるずるになっちゃって神経はぐちゃぐちゃでひとのかたちを保つほうが難しいとしても、最後まで矜恃は持っていたい。殉教に近いよね、本当に死んだらめっちゃウケるけど、まあ人体って頑健だしそうそう死なないし。

嫌になっちゃうよね。もっと楽しくやらなくちゃ、という強迫観念にも似た気持ち。ちゃんとしなくちゃ、走らなきゃ、立たなきゃ、笑ってなくちゃ。違う、本質的に全然違うよ、そうじゃない。


自分の感情の手のつけられなさは自分でよくわかってる。もうあとは暴発させてあげるしかないんだろうな、堰き止めたものが濁ってしまって、もうとてもじゃないけれど胸に留め置けない。
ナイフを入れて切り開いて、嘔吐するみたいにぼたぼた落ちる汚水を見たらきっと気持ちいいだろうなと思う。
ここ、これをよく知っておいて、わたくしはとても醜いにんげんだということを。