透水

 

夏のための新しいものは青く鋭く底冷えしていて透徹という言葉を思い出した。それが始まる前にはCorneliusのCueが、終わったあとにはGarbage のI Think I'm Paranoidが。10年そこにいて初めての右端。血の気の通う場所はほとんど伺えなくて、そのチャックを下ろした内側が空洞でも驚かないって何年も前から思っている。それでも、右手だけは剥き出しで、そこにだけひとがいて。神経質に折りたたまれる指が示す固有名詞。灰色の五本指ソックスに黒い鼻緒の雪駄。金属を抑える彼女の靴はユニクロマリメッココラボのスリッポン。リボンコントローラーを滑る白い手袋、アレンジされて初めて立ち上がってリズムを取る背中。肌色、黒いリストバンド、の更に奥の手首がちらりと見えてぎょっとした。死んでしまう春の行方に追い縋る君がいて。いつも左端にいるから気が付かなかったのだ、左側の壁には新月が明けてすぐのような鋭さの月に似たミラーボールの影が落ちる。最近は曖昧な思考のせいで何も動かなくなっていたのだけれど、ようやく涙が落ちて、自分の切れ端を見た。

この10年、2回を除いた総てを見た。この目で確かに総て見た。この身体で総てくぐった。大丈夫、そういう肉体をわたしは持っていて、内側の肋骨で留めているものがあって。これなら長く歌えるね、と笑った日から。

 

高円寺から中野まで住宅地を歩く。警察の周りに猫が3匹。サンプラザの前でまだ買ったばかりのピアスのキャッチのモチーフが千切れて落ちた。

 

 

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この時期に意識して着るワンピースがあって、それを今日着た。赤いオレンジのチェック、スクエア型に開いた襟。

 

誰に対してもそんなに安心していない、それでもこんなふうに安心しているのは初めて。いつも笑って受け流して、誰も間違っていないから誰にも何も言えないでいる。それでも口を開いてみたいと思った。欠損しないことを信じる、信じることはとても難しい。やったことないことをしようと思って、その難しさに取り組んでいるというだけの話。

ド偶数だと不平を漏らして1年経って、素数が回ってくる。その次の素数は少し遠いな。

 

美しい歌を聴いている。どこまでも走ってゆけるような、この曲を聞くたびにパライソという言葉を思う。色と光に塗れて、ただ美しさが加速して、ぶつけられた周波で相殺された気配だけの言葉の意味はまるごと無視して、その内容を知らないで感じるパライソ。でも美しいことだけは絶対に覆らない。

その夏にいつもわたしはいない、でもわたしは何度でもその夏に出会うことができる。美しさの基準はずっとその鼻筋だった、だったのに。眩しいものを他にも知ってしまった。佇まいを美しいと思う。嘘みたいな夢のとどめに忘れてきた。

わかったことは、わたしは美しいものを摂取していないとおかしくなってしまうということと、おかしさを宥められる美しいものはそう多くないということ。美しいひと、という形容の重量。
他のひとがどう感じるかなんて一切関係なくて、わたしにとって美しいことが大切で、それが貴さで、ああ、貴重っていい言葉ですね。

 

総ての季節を欠かさず過ごしたい。暑さも寒さも総て身体に積もっている。この身体に全部ある、体験をした身体を保有したくて縫うように生きている。
何も留め置けないから、そういうことをちゃんと知ってしまっているから、総てこの身体を通ったという事実だけ、自分のために。

美しいものを身体に流し込んで自分の骨として、だからひとりでも生きてゆける。その実感をちゃんといま、手元に置いている。絶対に大丈夫、美しいものを美しいと思えるうちは生きてゆける。それを美しいと思えなくなったら死のうってずっと前から決めている指標があって、少なくともまだ今日を生きてゆける。孤高で豪華にひとりで立って、眠って起きたらサーティーワンにアイスクリームを食べに行く予定。