日常なの。

 

まずバスセンターでカレー。文字通り飛び乗って、空席はなかったから飛び降りた。だらっと歩いてバスセンター前述の通り、そういえばそのあと日付が変わる近くまで水以外の何も口にしていなかった。20時に建物の外に出たら眼前の信濃川いっぱいの夕焼け、こんな時間に夕焼け。月も見えていた。夕闇のグラデーションが消えてしまう前に展望台へあがって、みなそこに沈む街が吐き出す気泡。高いところから見る道路が血管のように見えるのは、東京以外もそうみたいだ。萬代橋のふもとのベンチは野暮な手すりで区切られたりしていなくて安心した。あの橋の向こうには色町がある、らしい。橋を途中まで渡って、残りは霊体になったわたしに渡らせた。大きな橋をすうっと通ってゆく意識の透明さ、蒸し暑い空、雨は降らない模様。空席もなければ眠る場所もないので魚を胃に泳がせて水槽になって過ごしたけれど、CoCoLoのスタバのチャイラテで柔らかなひとがたに戻された。みかづきのイタリアン、おやつに鮎と牡蠣と帆立を泳がす。人生で初めてなんですという10歳にもならないであろう男の子に半分割いて渡した、無口でお礼も聞こえなかったけれどはにかんでいて、真っ黒な肌がまぎれもなく夏の反射。君の街まで3室活動。寿司を食べるからと離席する背中も少年で、彼にとってのひと夏はいかほどだろうかと想像するふりをする。眩しいな。その片隅のやさしい思い出になれたら。わたしはバカみたいなミラーボールが好きなだけ、ミラーボールが回っている季節が好き、それ以外の季節は輪郭が曖昧。鱗が欲しいよ、胃に落とす前に魚から奪って身体に貼りつけたせいで左目がひどく傷んでしまった。今もズキズキする。

今年の半夏生のすべて。

 

それからこれは半夏生の曲。

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いつも漠然ともっと遠くへ行きたいって思っている。どんなに遠くへ行ってもわたしはずっとここにいて、遠くになどいけないからだ、身体、そう身体がある。捨て置いてはゆけないわたしの大きな所有物。「わたしはいつかわたしになりたい」と繰り返している気がするけれど、ずっとそう言い続ける。おそらくは「XXになりたい」という願望がわたしの根なのだ。よりよくなりたい、いいひとになりたい、優しくなりたい、留まっていられない性分なのだ。全部食べるよ(吐いたとしても)。

 

力技でこじ開けた古傷を自分の手で縫う、だからこれは不慮の傷ではなくわたしの作ったわたしの身体で、もう何も問題はない。微細な順位などはそのときどきで移ろいゆくものではあるからそもそも制定しないけれど、それでもずっと好きだからずっとずっと好きだから。歌って。わたしは勝手にその歌声を聴いて、笑ったり泣いたり動き回るから。

 

速度を落としそうになったタイミングでも走り抜けたから誰にも後ろから掴まれずに済んだ。どんなに身体がふらついてても蹴り出すことができてもう片脚を前に出せれば倒れはしない、そうやって走る、日々を葬送して毎日生まれて代謝して、知らないひとになってゆく。立ち止まったら身体が腐る。倒れるまでは走るし、倒れたら倒れたなりの走り方があるというものだ。

どんなに限界でも月が綺麗なら朝焼けが綺麗ならそれだけで持ち直せる。

でも今月は変なフォームで走っていたから代謝が安定していないの減点です。微熱が続いてる、夏の身体、熟れてしまうね。冷蔵庫に入れっぱなしの桃を思った、減りゆく可食部、ごめんなさい。

カルディアンオーダー

 

6も28も完全数だから並ぶと嬉しい。数を並べて喜んでいたら、星も並ぶと報。

カルディアンオーダー通りに並んだ惑星が関東で観測できるそうで、それは非常に貴重なことらしい。午前3時半から4時までの間と言う。その日に不慣れなことをする予定があったからとにかく必死こいていて、ゆえに当然起きていて、ゆえに当然パジャマのまま飛び出した。夏至もすぎた薄ら明かりに剥き出しの太腿で、ビルの切れ目を探して歩く。低い位置にいた水星と月は見られなかった。そもそも新月を翌日に控えているので難しそう。肉眼だったので海王星天王星もダメ。それでも金星と火星と木星土星を見ることができたし、金星と火星と木星は同じ視界に収まった。

そしてその更に3時間後が今年のわたしのソーラーリターンだった。自分が眺めている空の、3時間後のホロスコープを眺める。見慣れてきた図の円は、ちゃんと空の話なのだと思った。今年は激しく出入りを繰り返し、外気を内側に持ち帰る雰囲気がありそうです。反復横跳び。

 

 

記憶は決してわたしを甘やかすものではない、厳しく苛んでくることも多い。それはわたしが墓標であることとも無縁ではない。胃に落とした果物の墓標、胸中に抱く亡くなった者の墓標。物質は失われる。頭のなかのものだけは盗まれない。そうして気づいたら墓標になっている。知恵と記憶、経験。身体と頭にあるそういったものが結局自分で、最後に身を助くものであり、滅ぼすものでもあるのだろう。

 

懐妊、という言葉。わたしはたくさんのものを孕んでいる。あなたのこと、あなたのこと、あなたのこと。胎に写し取ったあなたが揺れる、ここにいる、と思う。そのとき手を当てる部位は子宮でも心臓でも頭でもどこでもよくて、わたしはどんどん不純になってゆく。それでそう、ここは澱。

 

自分の誕生日に梅雨が明けていたのって初めてだったかもしれないな。空梅雨でしたね、雨の歌を聴く暇もないほどに。今年は、今年こそはレインコートを買います。

 

 

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水面の反射光のような会話を愛している。波打ち際で爪先を濡らすような果てしない他愛なさ。

ふと、自分の言葉を果てしなく自分だと思っている可能性に行き当たった。言葉を読んでもらえると嬉しい。無視されると淋しい。やっぱり言葉は身体に根差している。感情が受肉してわたしは生まれたのだけれど、それなら言葉と感情も直結するのかと考えるとちょっと違う気がする。正確に言うと力不足。本当は違う出口として扱いたい、感情として表出することもあるし言葉として表出することもある、というふうに。そのもっと手前のふやふやした感覚。わたしの言葉には論理が通らない。だからひとに届かないのだとしても、でも諦めてはいけないよ。

 

思考や感情に適切な言葉をあてがう作業という意識はあんまりない。そもそも言葉の使いかたが不適当なんだと思う。言葉のほうが揺らめいて使われたがる、飛び出したがる、本当はそこをビシッと統制しなきゃいけないんだろうけれど、自由な場だからこうしてる。ここはわたしの場所だもの。

 

 

ニーナのためにを聴くと胸が壊れてしまうのは「笑って」という願いが眩しいから。笑って欲しいと思えるひとがいる眩しさ、思われる眩しさ。祈るときだけは足が止まってしまう、少しの溜息。自分の表情はいろいろ知っていると思っていた、人生でいちばん多く見た顔だ。自分の笑顔はあまり好きではない、写真を撮られるのも苦手。いい表情ができないし、なんだか間が抜けているから。でも知らなかったのだ、わたしがあんな風に笑うことを。そしてそれを教えてくれるひとがいるなんて。

「今日君が笑うそれだけで春だ」、そんな笑顔を眺めて一生を終えたい。誰かを幸せにできる笑顔というものがあるなら、わたしもそれが欲しい。

 

ふあふあのわたあめとして暮らしたい、どうにも泣き虫だから自分でべしょべしょになって消えてしまうかもしれないな、持続可能なわたあめになりたい。わたあめとして生きてゆける生活が欲しい。なんだそれ。なんでもいいか。ところでわたあめは買うときがピークだよね。

 

 

うたたねをしたらデスクで小さなふあふあの哺乳類を飼っていて、業務の片手間に撫でている夢を見た。夢のなかでその生き物を「うさぎ」と呼んでいた。

 

 

わたしを醜形だと言って扱い、またお前みたいなのは女ではないと追い込んで自信を根こそぎ奪ったやつらのことが今更憎い。お前らにありとかなしとか言われる筋合いはひとつもないと思いつつ、それでも傷ついてしまうことが恥ずかしくて悔しくて帰り道でずっと泣いていた。こんな風に傷ついていることを彼らは知らない、気にも留めない、ひとりで落ち込んでいることまで含めて苦しい。一週間経っても思い出して泣いてしまう。

呪いのようにへばりつく数多の言葉。傷ついた女性性を、嬉しかった言葉を抱きしめながら、それでも結局は自力で取り戻さないといけない。もしかしたら、と思う。彼らの言う通りなんじゃないかと。「お前じゃXXねえ」、それが大衆派だったらどうしようという恐怖。いい、大衆に好かれたいわけじゃないからいい、構わない、関係ない。「あなたは魅力的だよ」、ごく少数のそういう言葉を手繰り寄せる。実はわたしもそう思ってるよ。こうやって書きながらまだ涙が出てくる。何がこんなにわたしを苦しめているんだろう。

 

 

今年は空梅雨っぽいね、もう6月も終盤だ。ライチが大好きだから生のを3kg買った。竜の鱗みたいに硬くてざらついた表皮を撫でては剥いて口に運んでいる。手を汚して食べる、わたしの肌の内側がライチの果肉みたいだったらいいなあ。

旗を掲げてなびかせて

 

まともな言葉で語らい合うひとびとを眺めていて、とにかくここから逃げたいと思った。
まともな言葉がどうにも身体に障る、誰が誰の口で誰と話しているのかわからなくて混乱する。自分の言葉は少しおかしい、そういうことを忘れていた。

最大公約数的な言葉で話すことにほとんど、いや一切の興味がない。

「詩人だね」と冷やかされるたびに笑って返すが、詩はもっとちゃんと技巧を駆使される作品であるわけだから、常日頃から詩を口にしているわけではない。こんなのはただのわたしの話法の癖に過ぎず、自分でこういう話し方を選んで喋っている。技巧も何もないきわめて素直な在り方として。

 

わたくしにとっての言葉というツールについて。

そもそも言葉に書きたくなるものがひとによって違う、という前提をまず見直したほうがいい。思考や価値観の表明に使うよりも、例えば夏の死にたさ、五感がぶれるほどの感情、澄んだものの暴力性、そういったものについて書きたくなる。そして言葉がいかにあてにならない不足の多いツールであることか。

他人に受け取りやすい言葉を話す必要を感じない、まるめた最大公約数の言語では自分がのらない。そんなものを伝えようとして何になる。わたしは血の通ったあなただけの言語を聞きたい捉えたい、カマトトぶんなよ、あるいは楽をするなよってもどかしくなる。とはいえ、最大公約数的な言語で話すひとに対して恐怖やおぞましささえ覚え始めたのは、さすがに神経が過敏になりすぎているけれど、それならいい、尖っているものは大事にすべきでこのまま行く。

 

わたしにはこういう話し方しかできないし、これでは話ができないというのならもう冒頭からのミスマッチ。わたしもあなたの言葉がわからない、だから何も問題がないしとことんまでどうでもいい。わたしはここに立つ。

自分でも自分が何の話をしているかなんてわかっていない、こうやって書きあらわすことはその瞬間のスケッチ、きわめて粗くかたちどるデッサン、少なくともわたしはそうやって使いたいからこのように。言葉というツールは酷く不便だ、シャッターを切って焼きつけるように使うのが性に合っている。一瞬の発露でしかない、でも一瞬だから無責任であっていいわけがない、焼きつけてしまった一瞬をきちんと自分と呼ぶ覚悟は持っている。わたしはいまここにしかいないのにさ、ちゃんとその責任は取るから。

 

言葉を頼りにコミュニケーションをやるつもりがない、というふうにまとめることができるのだろうか。足がかりにするには酷く不確かなものだと思っている。語弊がないように探す作業は怠慢してはいけないけれど、同時に自分のいないものを書くのも嫌だ。抽象的なことなんてひとつも言っていない、わたしにとって具体的に見えているものの話をしている。

 

もうえげつなく言葉から逃げたい、あらゆる方向からばこばこばこばこ否が応でも洪水のように襲ってきて、げえげえ吐いて藻掻いている。あらゆる言葉を吸収してしまって酔っている状態に近い、悪い言葉にすぐあてられる。とにかくこういう気分のときはいけない、頭がはちきれそうになって怖い。アンテナがばかになってしまって受信し続けて疲弊している。自分に振り落とされてしまいそうだから、せめて物語でも書いたらいいのかもしれないけれど変に萎縮してしまって、自由な噴水のきらきらをやるべきだ。

早く唖になりたい、総ての言語を排斥したい。定期的にくる逃げたさがまた来て夏に至ります。夏にはとにかく気が狂う。ノーアスペクトのネイタル水星にトランジット太陽がコンジャクションしているというのもありますか。そんなこといったら夏至のたびにそういうことになりますが。

 

ああ、もっと真面目に楽器やっとくんだった。言葉から離れて何か作らないと本当にいつか気が狂いそう。せめてダンスとか演劇とか、とにかくこういうときは身体性に振ったほうがいいのだろう。ああ、香水売り場に通っているのも身体性への逃避かもしれない。言語で声明される香りと、実際に嗅いだときの体感の差異。あてにならないことを知っている。

みんな言葉に食い殺されそうなときって何して紛らわせているの?

 

わたしは、話すのが得意じゃないから、とにかく目が回る。わたしが言葉を探している間にみんなもっと先の話をしている。

言葉そのものなんて見ていない。投げ込んだ言葉が作る波紋を見ているし、あなたに投げ込まれた言葉で生じる波紋を見せたい。そうなると言葉である必要さえない。

わたしにとって言葉は身体的なものなのかもしれないと仮定する。手を繋ぐように殴るように見つめ合うように歯を突き立てるように。表面なんてどうでもいい、言葉では到底収まらない、スマートじゃないスムーズじゃない、こうやって嘔吐するわたしの口元を見ていて欲しい。願わくば、呼吸が上がって上下する肩がなだらかに落ち着くまで。

ソルトミントカルトキルト(カルキ抜きのうた)

 

それでもわたしはやっぱりそこをひとつも疑っていなくて、神様にはできない内緒を舌先に乗せて絡ませた。口移しで飲んだ水がおいしくて瞼の内側がちかちかした布が隠した太陽の奥。おんなじように結んで、違う結び目ができあがるから引っ掛けて遊ぶたびに掠れた声が鳴る。拍子は取れないけれど心臓の音を聴きたかった。どんな祈りもちんけに見える、あの結び目の前では。

うん、わかる。

致命的にいいことしか起こり続けない世界にいて、安心したら死ぬから死ぬ気で走る、どう足掻いたって死ぬ。こんな安心で腐ってたまるかよ、とにかくギラギラとぶつかるしかない。防御じゃ勝てない、必要ならリングに上がるハラはキメた。もっと追い込みたい。最低でも追い詰められない程度の速さで走るから。

屍累々の世界にいたって猛スピードで走ればぐるんぐるんの色がきっと素敵なマーブルになるよ。いまは大きな大きな花々の生首の中から何本か抜き取って即席の花束を作ったの日当として拝借したのを飾っていて、そう、きっと混ぜたときの視界は大差なく色とりどり。戦場も楽園もステップ踏んで駆けてゆく。

 

わたしは今日もわたしでいる、でも昨日もわたしでいた証明はないし明日も自分でいる確証はない。連続とか断続とか小難しい定義を考えるほど暇じゃないから「わたし」と呼んでいるこれ、このひとが同一人物かなんてわからないよ、という叙述トリックを毎度仕掛ける、闘魚の尾ひれ。

わたしは今日いまこここの瞬間にしかいなくて毎秒死に絶えてゆく。雲のかたちや温度湿度風向きと同じように、移ろっては毎秒存在してみている。そして眠る。行き倒れた泥の塊のように意識を深く沈めて、見ている側が不安で起こしたくなるような眠り方をするらしい。眼差しがあると嬉しい、そしてひとり乗り用の泥舟として漕ぎ出す夏至の夜半を迎えている。短い夜の内側にも塩を塗ってスノースタイル、水分だけじゃ足りないのさ。熱射病には気をつけてね。

 

 

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