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水面の反射光のような会話を愛している。波打ち際で爪先を濡らすような果てしない他愛なさ。

ふと、自分の言葉を果てしなく自分だと思っている可能性に行き当たった。言葉を読んでもらえると嬉しい。無視されると淋しい。やっぱり言葉は身体に根差している。感情が受肉してわたしは生まれたのだけれど、それなら言葉と感情も直結するのかと考えるとちょっと違う気がする。正確に言うと力不足。本当は違う出口として扱いたい、感情として表出することもあるし言葉として表出することもある、というふうに。そのもっと手前のふやふやした感覚。わたしの言葉には論理が通らない。だからひとに届かないのだとしても、でも諦めてはいけないよ。

 

思考や感情に適切な言葉をあてがう作業という意識はあんまりない。そもそも言葉の使いかたが不適当なんだと思う。言葉のほうが揺らめいて使われたがる、飛び出したがる、本当はそこをビシッと統制しなきゃいけないんだろうけれど、自由な場だからこうしてる。ここはわたしの場所だもの。

 

 

ニーナのためにを聴くと胸が壊れてしまうのは「笑って」という願いが眩しいから。笑って欲しいと思えるひとがいる眩しさ、思われる眩しさ。祈るときだけは足が止まってしまう、少しの溜息。自分の表情はいろいろ知っていると思っていた、人生でいちばん多く見た顔だ。自分の笑顔はあまり好きではない、写真を撮られるのも苦手。いい表情ができないし、なんだか間が抜けているから。でも知らなかったのだ、わたしがあんな風に笑うことを。そしてそれを教えてくれるひとがいるなんて。

「今日君が笑うそれだけで春だ」、そんな笑顔を眺めて一生を終えたい。誰かを幸せにできる笑顔というものがあるなら、わたしもそれが欲しい。

 

ふあふあのわたあめとして暮らしたい、どうにも泣き虫だから自分でべしょべしょになって消えてしまうかもしれないな、持続可能なわたあめになりたい。わたあめとして生きてゆける生活が欲しい。なんだそれ。なんでもいいか。ところでわたあめは買うときがピークだよね。

 

 

うたたねをしたらデスクで小さなふあふあの哺乳類を飼っていて、業務の片手間に撫でている夢を見た。夢のなかでその生き物を「うさぎ」と呼んでいた。

 

 

わたしを醜形だと言って扱い、またお前みたいなのは女ではないと追い込んで自信を根こそぎ奪ったやつらのことが今更憎い。お前らにありとかなしとか言われる筋合いはひとつもないと思いつつ、それでも傷ついてしまうことが恥ずかしくて悔しくて帰り道でずっと泣いていた。こんな風に傷ついていることを彼らは知らない、気にも留めない、ひとりで落ち込んでいることまで含めて苦しい。一週間経っても思い出して泣いてしまう。

呪いのようにへばりつく数多の言葉。傷ついた女性性を、嬉しかった言葉を抱きしめながら、それでも結局は自力で取り戻さないといけない。もしかしたら、と思う。彼らの言う通りなんじゃないかと。「お前じゃXXねえ」、それが大衆派だったらどうしようという恐怖。いい、大衆に好かれたいわけじゃないからいい、構わない、関係ない。「あなたは魅力的だよ」、ごく少数のそういう言葉を手繰り寄せる。実はわたしもそう思ってるよ。こうやって書きながらまだ涙が出てくる。何がこんなにわたしを苦しめているんだろう。

 

 

今年は空梅雨っぽいね、もう6月も終盤だ。ライチが大好きだから生のを3kg買った。竜の鱗みたいに硬くてざらついた表皮を撫でては剥いて口に運んでいる。手を汚して食べる、わたしの肌の内側がライチの果肉みたいだったらいいなあ。