やってらんないよね、やるけどね

 

自分の「ちめいてきなしゅんかん」を覚えている。

金切り声を聞いていたら涙が止まらなくなった生物室、体育着のまま訳もわからず泣きながら開けた保健室の扉、さっと険しい顔に変わった養護教諭が通してくれた部屋。そのときまで保健室に個室があることを知らなかった。
よく晴れた日で、窓から太陽光が射していて、室内は明るく快適で、その向こうのグラウンドではさっきまで一緒に授業を受けていた同級生が走っていた。きっとはしゃいだ声を出しているのだけれど窓を挟むからくぐもって気配でしか通じてこない。どうしてか止まらない涙をぱたぱたと垂らしながら、わたしはあちら側に行けない、とぼうやり思った。

 

晴れた平日、動けなくて横たわって過ごしていたものだから、その瞬間が重なって脳裏に見えた。今週の東京は晴れていて、窓の向こうはきらきらしていて、本当はきっと忙しない。師走だし。室内は静かで快適で、頭は痛くて身体は重くて、こんなに動けないものだったかと新鮮に感じていた。音楽を掛けようにも機械を操作することさえ億劫だった。
気落ちしすぎずに済んでいるのはこうなるのが初めてではないからだ。なるほど大変だね、よく生きのびたね、とのんきに思う。頭の回転は鈍いしひどい有様なんだけれど、どこか懐かしい。

 

 


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いわゆる「付き合ってはいけない男性の3B」に弁護士は含まれていないが、電話の向こうの口調はどこか歯切れが悪く、あまり感じが良くなかった。被疑者の弁護人。ややあって彼は話し始めた。
刑務所から出たばかりだったということ、まだわたしの件が済んでいないのに別の方に迷惑行為を行っていままた拘置所にいること、おそらく悪意を超えて病的なものなのだろうということ、示談を持ちかけたくて連絡をしようとしたが被疑者の支払い能力の確認ができないので宙に浮いていたこと。今週中に再度連絡できると思います、と言ってまだ連絡はない。

別にお金が欲しかったわけでもないけれど、「金銭ふんだくりチャンスじゃん」とかちゃらけていたのを剥ぎ取られてしまい、ばたばたとひっくり返って、そこにはただ傷ついた自分だけが残ったのを発見してしまった。
一度でも傷ついたことを認めたら、これまでずっと傷ついてきたことに直視しなくてはならない。あのときも、あのときも、わたしは怖かったし不快だった、でも何も言えなかった。弱者だとちらりとでも思った瞬間にびっくりして死んでしまいそうだ。悪意らしい悪意さえなかった、病的なただの手癖。ただの手癖のせいで。
そもそも示談も大概グロテスクだ。自分の傷に、感情に金額をつけて、それで手打ちにしようという話だもの。しかも相場が決まっている上に、相手の金銭事情だって鑑みなくてはならない、わたしが? どうして?


そんなことを考えていたら身体が先に参ってしまった(正確に言うなら身体が参ったところにこの報が入って起き上がれなくなった)。でもまだ頭は負けてないし、精神は折れていない。きちんと正しく明滅している、ちっかちっかと目障りなほどに。いいね、まだ全然バテてないね。
誰かを支えたいと思うなら自分の足場をよく見てみるべきだ、踏ん張りの効かない足場ではないか何度でも見てみたらいい。そして、大事なのはここ、ここなんだけれど、実際がどうだかは置いておいて、いけると思ったらいってしまうべきだ。

 


土曜、朝早く起きて格好いい靴を買った。わたしにとっては少しいい値段。何年かに一度の思い切った買い物のひとつ。靴のブランドにはまるで明るくないけれど、そういえば10年前の冬に初めてこのブランドの靴を買ったのだったことを思い出した。足のサイズが合わなくて、片手で足りるくらいしか履かないままになってしまっている。でも新しく買った靴はもうワンサイズ上の、ジャストサイズのだから、わたしはこれを履いて家の外に出るのだ。早く足に馴染むといいな。

そして通りがかりに、見かけるたびに複雑な気持ちになる方の展示を見る。面識は当然なくて、ただなんだかどう受け取っていいかわからないのだ。本人はいないがトークショウまで聞いてしまった。言葉に出される文章のことを考えた。そして乗換駅でシュトーレンを買って、あとはひたすら眠りに落ちきらないだるい身体と頭を転がしていた。