ひとを置いて走れ

 

内臓が不本意に動き回っていて腹痛がする。細くなった食のせいで胃腸が働き方を忘れていて、わたしもわたしで食の細い日々をどうやって過ごしていたのかを思い出せない。可及的速やかに食事量を戻さないといけないとは思うのだけれど、そもそも思考で食事が摂れたらこうなっていない。これが長引いて夏バテと接続したりしたら面倒だなあと思っているけれど、暦はまだ4月で、こうなってまだ3週間程度で、いちばん良くないのはかように心配していること。心が弱れば一気に負ける、食事は摂れている、身体にはまだまだ蓄えがある、低血糖は起こしていない。つまり特に不調はない。放っておけばそのうち食べる。
そう、ヴィシソワーズやパンプキンポタージュなんかの冷製スープと飲むヨーグルトだ。あればかりを摂って胃を膨らませていた、この季節だとよりおなか冷えそうね。

 

 

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知らないひとについていってはいけません、と小さい頃から口酸っぱく言われてきたはずだけれどろくに守った試しがない。むしろ積極的についていく節さえある、だってよくわからないけど楽しそうじゃん。向こう見ずなことをして生きてきて、中には本当によく怪我せず帰ってきたなと振り返って背筋が凍るエピソードもある。それでも、怪我はしなかった。運がいい、本当に運がいいとしか。

 

頭で考えたって動けない。頭って本当に判断が遅くて、今じゃないとかまだ行けるとか、言い訳と欲で動かない理由を見つけようとする。身体は頭なんかよりよっぽど早い。身体中の神経は空気の向きをわかっているし、鼻は不純物が混ざる瞬間を捉えている。言語化できない大量の情報が身体と感情を叩くから、叩けば響く、音が鳴る、振り向く。そういう単純さで、危機を回避している。
この動物的なシンプルさの純度だけ高めていけば大丈夫だというのが実りの少ないこの人生で学んだ数少ない大切なことだ。シンプルでいることは強い。絶対にいけないことは、ここに人間を持ち込むこと。人間がいると判断が遅れる、その一瞬で路地裏に引っ張り込まれて強姦されて殺人されて遺棄される、常にそのことを警戒している。当然いつだって起こりうることとして。自分の中の動物と人間をいっそう切り離して、ますます耳を澄ませている。

 

 

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ちらちらと記憶を繰っていた。記憶の中で、わたしはいつも黒いタイツを履いていることに気づく。これは自分の足元がよく視界に入っていたからで、あるいは写真の記憶だ。それに、事実黒いタイツはよく履いていた、レトロなワンピースが大好きで合わせるのには黒いタイツが最適だっただけの話だ。あの頃、なんだかしょっちゅうそのへんに寝っ転がっていた。
今でも覚えている、12月、クリスマスのための特別な礼拝がある日に学校に行けなかった。酷く落ち込みながら、仕方がないのでCDを返しに隣駅のレンタルショップに。昼だからひとのいない住宅地に入ったところでアスファルトの駐車場を見つけたので、そこに寝っ転がって日向ぼっこをしながら、仰向けになって返す間際の歌詞カードを読んでいた。よく晴れた日だったこと、青空だったこと、総てがままならないと思ったこと、強い無力感、今頃ハレルヤを歌っている頃だろうかなどと例年の流れを浮かべながら音楽を聴いていた。そう、そのときも黒いタイツを履いていて、確か写真を撮ったはずだ。いい天気の日に、世界からはみ出しているなあと感じていた。聴いていたアルバムも覚えている。

 

ごそごそ探してたら残っていた、そのときの写真だ。あるものだなあ。

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時折、自分の中に年齢不相応な子どもを発見してしまう。すこぶる無邪気で人懐こい、どうにも無防備で、両手放しでわあわあと喋って笑っている無知がいる。薄気味悪くてどう扱っていいのかよくわからない。嘘をついている誰かのような気もするけれど、毒気がなさすぎて疑うこともままならない。
このひとは誰なんだろうな、でも間違いなく自分のなかにいる。愛でるべきなのか憎むべきなのか判然としない、まあどうでもいいことではある。

「人間とは多面体であって」と松尾スズキも劇中歌でしたためていた、そのフレーズの結びはこうだ、「せめて恋くらいきれいに きれいにこなしましょうね」。