思想はない


セーラー服が好きなんだよね結局。ファッションとして。セーラーカーラーには高いデザイン性を感じる。高校生が着てるその姿が可愛いとかでなく、セーラー服というものが好き。だからわたしはセーラー服やセーラーカーラーの服を着る。そこには海軍がどうだなんていう思想はない。
ましてや、セーラー服に「革命」という字の形をしているバッチをつけていることに思想はない。そのすぐ下に「反革」「斗争」という缶バッチをつけているのも。その缶バッチだって、好きなバンドの物販であったから買っただけだ。思想はない。


言葉を並べるのにおいてすらそう。
愛や恋やメンタリティやセクシャリティを語るとき、私は極力、責任を放棄する。その瞬間思ったことを書き留めたいだけだから、明日反論されてもわからない。精子のようなものだよ、吐精してから生きてる時間は短い。ブログなんておおよそコンドームだ。この中で死んでゆく、有効期限は短い。だから軽薄に語りたい。過去の自分の言動には責任を持つ。けれど、文章くらい。耳あたりのいい言葉を吐きたい。そこに思想はない。それは嘘だ、あったりなかったりする。

最近思ったのだけれど、思考するときに自分を自分から切り離す節があるらしい。だから同じ議題で考えても違う結論になってしまうんだよ。だから仕方ないんだよ。自分でも結論が不可解なことが度々ある。


洋服と文章は、ファッションなんです。思想はあったりなかったりするんです。洋服も文章も大好きで好きなときにころころ変わってゆきたいんです。意味はあるんです、ただそこに命題はない。本当の思想は、ここまで確かめに来てくれ。嘘は吐かない。これらの文章には、やはり思想はないのかもしれない。どうしてもわからない。


きっとただひとつ言いたいのは、総てに思想があるわけではないということ。素敵だと思ったものは、無責任になってしまってでも、好きだと思ったものを身に付けたいこと。覚悟は決まっている。覚悟を決めた時点で本当の無責任にはなれないということ、その矛盾。


ほら、既に矛盾。こんな風にくるくる変わるものの責任を取るのは、本当に難しいんだよ。