速度を上げて書け抜けて

 

好きな文体、好きな物語、好きな長さ、いろいろな尺度それぞれに好みがあるけれど、そのバランスが取れてないと思った。3人がくるくる語っているようで、全員が筆者の道具だ。そのひとはそんなこと言わないんじゃないののオンパレード、というよりそのアンバランスが持ち味として評価されたんだろうな。

登場人物が筆者の道具になっていることについて、あまり別に気にしないほうではあると思うのだけれど、3人全員が服従していると暴力的に見えてくる。殺しきれない自我を刈り取ろうとするたびに、にょっきり生えている筆者の首は勢いよく飛ぶはずだった。それなのにいつまでも目が合うから、このひとは自我が強くて文章表現が好きなんだろうと思った。小説。小説ってなんだろう。

 

 

わたしの好きな文章は、どうやらあんまりお金を稼げるものではないらしいと結構早いうちから気づいていた。

文字数が少ないとまず読まれないらしい。12000文字以上の作品であることを確認して初めてタイトルをクリックすると明言するひとを何人も知っている。
わたしは2000字で感動したいし4000字に全部を詰めたようなものが好き。でもそういった文章はアクセス数が明示されるタイプの投稿フォーラムではあまり人気がないようで、そういったタイプの話が人目に付く場所に配置されていることはほとんどなかった。

10万字20万字と体裁を崩さずに書けるのはすごいなと思う。わたしはそれだけの文字数を貫く我を持てる気がしない。ちなみにこの作品は原稿用紙153枚分だそうだ。うん、原稿用紙10枚分を15回って感じがする。

 

言葉って楽しいよね、わかる。だからきらきら跳ね回る言葉だけを見てみたい。あなたが本当に書きたかったのは、その3人でいえばどの人生? だれの文体? そのおいしいところだけ欲しい。
3人全員ひとつの口で喋ってるって思えるくらい我が強いのに、吐き出す比喩の温度が少しだけ違っていて、だから筆者には3人準備する必要があったのだろうけれど、わたしはそれらを全部混ぜっ返したものが読んでみたい。

きっとこのひとは、文章を器用に書けてしまう。だからこそ他のひとの口を使うくらいしないと、小説のていをなさないと、書くのが楽しくないのかもしれない。そこの落としどころを探したら作家になるのかもしれないし、その作業がつまらなかったら違うことをするのだろう。でも繰り出し続ける姿勢は見ていて楽しかった。
作法なんていらないよ、無視してやったんですよっていうしたり顔まで見えてくる感じがむずがゆくもあって痛快でもあって、そんな瞬間って探してもなかなか出会えない。
望まなくともどうせ洗練されてしまう。

 

いま、いまできることをいましないと古びてゆく。こうやって書いているときでさえ、読み終わった瞬間からはどんどん離れてゆく。やろうよ、いましかない、いまが続きつづける一瞬が終わらない。断続的な一瞬をゆっと束ねる言葉を持ちたい、言葉って楽しいよね、わかる。言葉は何も束ねない、言葉を留め具のかたちにして何かを束ねているのは結局わたしなんだ。