紛失しても取り乱さなかったよ明らかに守られてたから

 

指定された場所に向かいがてら、ちらっと見えた瞬間に「細い」と思った。実際の体型とはきっとまた別の何かなのだと思う、主線の太さを調整されたような雰囲気。線の細い印象や視線の動かし方、話すときの些細な抑揚なんかから吸い上げるまできっと10秒もかからなかった。佇まいというのは不思議なものである。

 

町田康の「混乱しているのは頭だけ。疲弊しているのは身体だけ。不足しているのは資金だけ。枯渇しているのは才能だけ。大丈夫や。俺は絶対に大丈夫や。」という言葉が一目見たときから大好きで、折に触れては脳裏をよぎる。身体から言語を排斥したいという欲がなくはないけれど、最近は落ち着いている。言葉が好きだな、好きだと思っている。

借りた漫画(そのままあげると言われた)を読んでみたり、突然もらった新品のリコーダーを吹いてみたり(褒められた)、「母乳」聴きたいけど11月の始まりの季節まで我慢しようと思って「GOLD」を聴いては胸の奥をちりちりさせてみたり、お守りを落としてみたり。そして「海にうつる月」の歌詞を思い出していた、「君は大事なリボンをなくし ぼくはじょうぶなカバンがこわれ」。

わたしはしつこいでゆうめいだから、大体のことがどうってことない。君はなにも、どうもしなくたって平気。ここにあるものがわたくしの総て、ここに灯るものがあるかないかだけが大切、灯っている、それでよい。

 


強い言葉であることを承知で言うなら、これはサバイバーズ・ギルトなのかもしれない、と考えていた。自分の納得するように、と言われて考えてみたけれど、思えばもう10年以上考え続けていることであって、納得には至ってなくて、ひとりでは限度があるのかもしれないなと思っている。
大丈夫だよ、と強く言われたいときもある。わたしは論理よりは感情で動いているから、大丈夫だと思えれば大丈夫になれる。自分でも惜しみなく声を掛けているのだけれど、斥力のようなものが生じるのか大丈夫じゃないよと言い出すねじくれ者がいる。混乱しているのは頭だけだし、疲弊しているのは身体だけ。大丈夫ではないはずがない。

 

鍵盤を叩く指が随分と軽やかで、自分がいましなやかに再生していることがわかる。5行以上の文章を成立させることができないけれど、連ねればこのように文章ごたる何かとなり、わたしのひととなりの一部を表す何かとなりえそうな雰囲気を醸す。

わたしはひとが好きなのだろうか、と再度考えてみる。よくわからない。嫌いと言うほどではない。尊いという気持ちはある。なにより面白いし。にんげんウケるよね、いっぱいいるしさ。とにかく面白くありたい、安定なんか面白さに比べたら魅力が薄く見えてしまう。結局ここだ、こういう性分なのだ。こうやって吐露する、これがやっぱりわたくしの総て。どんな嘘も本当も結局明らかにはならない。深い泥濘に丁寧に沈めたものは真実でも虚偽でもないのだと思う。何色のセロファンが好き?トイレの電球のところに貼ってさ、変な色の個室にしようよ。

 

何日もかけて吐き出したものをこうやって編んでみるけど大したことは何も起きない。泣き言も妄言も勇み言も弱気も強気も勝ち気も好戦的な性分も、どれひとつとして嘘ではない。本当ではないかもしれないけれど。それでも吐き続けて重ね続けていれば色濃く見える部分もあるのかもしれないよね。

 

「自分で手一杯で君どころではない、辛いばかりだろうと思うがどうか」と問われたので、「ちっとも構わない」と答えた。