漢字を開きたくなる季節

 

辞令と予告、そして申請をしたいと申請した。ダメ元、あわよくばである。こういったことを考え始める程度には、時間はひとを小賢しくする。


懐かしいことを思い出し、5年ほど前に自分の書いていた文章を読み返していたら思いがけず時間がかかった。案外春の話が多いという発見もあり、自覚してなかった手癖もいくつか。諸々多用していて恥ずかしかった。

どれもこれも、いかにも自分が書きそうな文章だな、と思った。変わらないのね。日記や会話の文に比べて物語で使う言葉は変わりがない。文章の言い回しというのは染み付いたリズム感みたいなものがあるみたいだ。実際、「昔書いた文章なんだけど」と見せてもらった他者の作品にわかりやすい古さは感じなかったりもするわけで、自分の文章にしたって、他人からしたら今と大差ないものなのかもしれない。

 

口にするのも野暮だけれど、わたしはあまり文章がうまくない、ただぼうやりと書き綴り続けているだけだ。世の中には美しく鋭く小粋な言葉で日常や抽象や思想を切り取るひとがたくさんいて、わたしはそれの美しさに感じ入るばかりだ。
ものを書くことは好きだ、と思う。正確に言うならば書きたいと思うから好きなのだろう。こんな内気な遊びに耽溺しているせいで人付き合いはあまりうまくない。なかなかそういう印象を与えていないと思っているけれど、どうにも。

書いたものを自分の臓腑の一部のように感じていて、これを見せずにひとに接していると、どうにも自己開示をしていないような気持ちになっていけない。でも普通はこんなふうにだらだらと書き綴る趣味の持ち主などノーサンキューなんですよね、ええ、理解しています……。

 

どうしてこんな偏屈なにんげんになってしまったのでしょうか。

「君って男性のことが苦手なのかって思ってた」

友人に指摘されて自分でも驚いたが、確かにそうかもしれない。粗相があってはいけない、礼儀正しく、慎重に、適切なタイミングで相槌を打って、もちろん言葉遣いが厳しくならないように気をつけて、「あなたの話に興味がある」、そういう態度を全身で示す。嘘ではないのだ、ただきっと過剰なのだろう。過剰なものって毒なので、それはうまく行かないだろう。

考えてみれば、対面で出会う男性総てにそう接している気がする。好かれたいとか色目を使っているとかそういうことではなくて、なんというか、推測するにおそらく正しく男性に接しようと思うときの態度なのだろう。わたしの思う「無難」の体現は、つまりひどく窮屈でSiriの口調より平板な態度。違う、そんなことがしたいわけじゃない。

 

相手の書く文章を読まないと自分の服が脱げないのかもしれない。それでは相手も脱がない。さようなら。はいさようなら。こういった寸法。

サピオセクシャルというセクシャリティがあるらしい、相手の知性に惚れるというもの。自分がそれだとは思わないが、そういった傾向はかなり理解ができる。どんな顔がついているかではない、どんな脳がついているかのほうが遥かに、遥かに大切だ。

わたしは日々脳を大開示して生きている恥ずかしいにんげんですから、きっと報われないのでしょう。いいえ、愚者には愚者の救いがちゃんと用意されています。安いにんげんには安い神様が必要だと聞いたのは17歳のとき。

 

もっと見せて、あなたのことを。わたしはあなたのことが知りたい。聞かせて、脳のはなし。一節歌って、何かを諳んじてみせて。そのあとに笑顔を見せてね、あと、ここからが大事なことなんだけれども、それまでにわたしのことを好きになっておいてくださいね。