誰に対して拗ねているのだ

 

どうにも息苦しさがついて回る、息苦しい。生き苦しい。

わたしはとうに退屈しきっているのだろうと想像はつくのだが、何に退屈したのかって具体に退屈した。どうしてこんなに抽象で息をしようとしてしまうのだろう。

 

先日、10年前の自分の日記を読む機会があった。

当時の記憶はほとんどないが、読み返して思い出すものもない日記なのは知っていた。抽象的な言葉が並び、今日何をしただとかそういうことはほとんど綴られていない。寝言を束ねているノートに近い。

でも、読み返したとき、理解できてしまったんだよね。ああ、わかる。

 

 

ここのところのわたしはまるでダメ。自分の諦念が重たくて持ちきれなくなり、心身がちぎれつぶされそうになっていた。

日記を読み返した理由は覚えていないけれど、日記でわたしは何度も何度も強い諦念を訴えていた。いまと寸分も違わない。そこで、ようやく自分の不調に気が付いた。

諦念は突然眼前に突き付けられたものでもなければ、昨日今日生じたものではなかった。ずっとそこにあったものを、受容あるいは知らんぷりをして過ごすことができていただけだ。できていたことができなくなったのだから、やはりこれは不調なのだろう。

 

 

いつからこんなに諦めが強くなったんだろうと考えてみようとするけれど、悪い扉をいたずらにノックするだけになりそうだからしないでおく。

誰かに強い好意を差し向けられたりすることもなく、誰かの感情を強く揺さぶることも、とっておきに穏やかにすることもできず、要するに誰にも求められずに存在をすることを既に認めている。そんな他者の出現を期待することを諦めている。

もちろんわたしは自分に対しても期待をしていない、とっくに諦めている。

 

そんなことないよ、とかすかに燃える炎があって、くすぶっているそれを胸に秘めている気もする。自分だけは自分に対して期待してもいいんだよ、そういう声を掛ける炎だ。それを消してしまうべきかどうか、まだ決めあぐねている。

 

幸せになれないのなら生きたくない。でも幸せになれる気がしない。

別に大きな不満はないし、不幸という不幸でもない。でも、幸せになれないのなら生きたくない。

 

こんなことを憚らず口にしてしまった時点でわたしは微塵も美しくない。わたしはこんなつまらないことを考え、あげく言葉にするような浅はかなにんげんである自分にげんなりしている。だったら喋らなきゃいいのに、話さなければ露呈しないのに。

 

 

それでもこうやって露呈させているのは、いつかこんな文章が否定される日が来ることを夢見てしまっているからかもしれない。諦めが強いくせに往生際が悪いのだ。

 

 

 

わたしは美しい。

だから当然愛されるべきなのだ、愛さないあなたはひどく損をしている。

 

でもねえたぶん、こんな風に書くのは、期待ではなく最後の虚勢なのだと思う。

本当はきちんとわかっている。わたしは美しくもなければ頭も悪く、普通のことを普通にこなすことさえできない。文章を書くことだけはそれでも好きだったのに最近ではその気持ちも忘れてしまっているみたいだ。

 

 

わたしが他者に強い感情をひとしれず寄せているように、どこかでまたひとしれずわたしに強い感情を寄せるひとがいるのかもしれない。でもその可能性は限りなくゼロに近い。

 

こういう抽象的なことを考える。無論なんの解決にもならない。だから生活に向けて具体性をあげてきたのに、今になって抽象の目を開くなよ。生活がぐにゃりとして見える。

総てが余生だとわりきっていたはずだ、引退した選手のように過ごしていたはずだ。なのに、同時にわかっている。まだ現役プレーヤーを求められる歳であること。また単純に、余生を送るための資金もなく、現役でどうにかしなくてはならないこと。

 

 

ここまで全部文章が汚い。文章までも汚くなってしまったわたしは、もうどうやって。

わたしを愛する覚悟が決まっているのならここに来るといい。わたしは大きな愛を必ず。

 

それでもひとつだけ、これは本当に自分にとってあまりにも確かなことなのだけれど、あのね、わたしの聴く音楽は、どれもこれも本当に最高なんだ。