散々話して別れた帰り道、「欲しい物は欲しがらないと」と聡明な彼女からのメッセージ。
そしてわたしはバグを起こす。自分の欲しいものがわからないといって暴れまわる始末。
自分が何を欲しいのかがわからない、だからどうでもいいし、なんにもいらない。いっそのこと何も持たずに死んでしまいたいとすら思う。でも惨めなことには手放せない生命があり、そもそも死を欲しているわけでもない。どうでもいいし、なんにもいらない、だから生きてもいい。何にも持たないまま生きたって構わない。ああ、そんなの空虚だ、とても耐えられない、もう死にたい。でもどうでもいい。強いて言うなら手入れもせずに日々連綿と生命を続けて、こんな風になっていることが醜いと思う。嫌悪感、でもそんなものに執着をする根気もない。ただ、全部がめちゃくちゃになったらいいとは思う。きっとそれは愉快だ。
とまあ、こんな十代のようなことをぐるぐると考えている。息が苦しくなる。
だけど、「全部どうでもいいんでしょ?」と自分に問いかけると総ての加速が止まる、つかの間の沈黙。その代わり肋骨の内側が潰れそうになるのだけれど。
自分のご機嫌を取るのも上手になってきて、それとなく宜しくやってこれていた。それも、きちんと自分を拾い上げることが自然とできていたからだ。それはこんなことで混乱するわたしが身につけなければならない技能でもあって、習熟度もなかなかに深まっていたと思っていた。
だめなんだ、自分が考えていることがてんでわからなくなってしまった。こんな風になるのは随分と久方ぶりだ(と、こんな風になるときはきっといつも思っている)。
自分が何を考えているかわからないのはいつものことだけれど、そのことで取り乱しているのは少しおかしいのかもしれない。いや、いつもこうだった気がする(こんな風になってしまえば、これが日常だった気がするものだ)。
処理できていない感情がたくさんあるようで、でもそういうものをぎゅっと抑圧するのは苦手ではない、「自分で自分を律しなさい」もちろんそうしている。
でも思いがけず負荷が大きかったのかな、それでヒューズが飛んじゃって破綻してるのかな、そんなことを経験則から予測してみたけれど、まあ実際どうであるかはどうでもいい。
自分に興味が持てない、総てが他人事のように感じられる。最も身近な他人だね、誰だお前は。いや、まあ誰でもいい、どうでもいい、「わたし」と呼べば勝手に定義され切り分けられた「わたし」が生まれる。でも、お前は誰なんだよ。
嘘だね、「興味が持てない」? だったらこんなに言葉を尽くすわけがないだろう。お前はそいつを誰だか知りたがっている、波に乗るようにそいつに上手く乗っかれば、それが自分になると考えているんじゃないの。
わからない、どうでもいい。
離人感というとしっくりこない。でも、お前は誰だよ、お前は誰なんだよと、いまいちばん大きい声で叫んでいる、お前こそ誰なんだよって話なのかもしれないね。
でも大丈夫、平気だ。今日も血を吐いて愚かで愛らしい。
そして君は、それでもきちんとひとを愛することができる。愛することに依存をせずにいることもできる。
靴紐を結ぶのって大変なんだよ、でも待たなくていい。結べたらすぐに走り出すから、だから君にもすぐに追いつくよ。