フレームアウト

 

生々しい頭に言語を宛がうことをしている道中でいろいろなかたちに言葉を加工してきたけれど、改めて眺めたらその歪んでいることったら。自分の心地よいように並べたそれは、ひとつも落ち着く要素がなくって気を抜くと振り落とされそうだ。振り落とされそうだからこうやって宛がったのに振り落とされそさは横ばいのままで、これでもまだいくらか緩和したあとのものなんだろうなと思うとよほど頭は大変だなあと他人事のよう。

自分の血のなかでしか流れてない言語ってきっと各々あるのだろうけれど、自分でも自分が何を言っているかよくわからない。自分の言語はどこに流れているのだろう。
ひとつひとつ可愛いね可愛いねって水ばんそうこうを塗って流れて不定形だ、どんなかたちに水ばんそうこうを塗ったか覚えていられますか? わたしは覚えていられません、そして誰も解読できない自分が残る。

暗号化されていてセキュリティーは万全とも言えよう。あなたは誰ですか? いいえ、わたしです。
助詞や助動詞の回し方が癖っぽい気がするなっていう意識があったんだけれど、そのへんソリッドにして単語を剥き身にしたところで、やっぱり充分癖っぽかったです。

 


喉と鼻の風邪をしたらしい、すぐに声が掠れるしちょこちょこ鼻をかんでいる。冷房が本当に得意じゃないようですぐに粘膜がへたる。
龍角散のど飴をお湯に溶いて飲むのがよいと以前見掛けてから定期的にやっていて、先ほどもそれを飲んでいた。ハーブティーみたいでなかなかおいしいし、何より喉がすっとする。よかったら試してみてね。

 


楽しみなことがあるから楽しみにしてる、愚直でかわいいでしょう。微笑みとあくびの隙間でいろいろなことを為している。冷蔵庫のチューハイを切らしているから今日こそは買って帰ろうって思いながら最寄り駅着く頃には大体いつも忘れてる。


頭のなかには本当は絵があって、自分は絵を描く能力を激しく欠いているのでとてもとてもそれを表現できないのだけれど、わたしの見えている色を言葉じゃなくて本当に色で可視化できたら、それで伝えられたらどんなに素敵だろうなって思う。

抽象と具体を行ったり来たりして遊ぶのはお気に入りの趣味のひとつなんだけれど、もう少し具体にピントを合わせる手段を持っていてもいいかなってたまに思う。デッサンの練習をしようと思ったこともあったけど1週間くらいしか続かなかった。

やわらかく身体を丸めた女性がいて、その女性の耳だか瞼だかに触れて静かに感覚を鈍くしているひとがいて、時間みたいにふたりは流れてゆく。でも時間みたいに向きが不定形。取り巻く色彩は淡くて深くて世界の全部がそこから見えそうで、でも手前の色で視界が埋まり尽くしそうでもあって。くるくる回ってる、緩やかに緞帳は下ろされてゆく、でもその内側が暗闇かどうかの証明って誰にもできないよね。