水の身体

 

濁流が来た気がしたけどやっぱりすぐ消えた。いきなり感覚が消えるというか、他人事みたい。やっぱり薄めなんだと思う。

 

踏みにじられたのは感情だ、と反射。溢れた水の宛てもないから全部毒を回して麻痺させた。動かなくなった水ごと腐って落ちたらいい。首をすげ替えたい。わたしには何もない、口出しする権利だってない、わかっている。踏み躙られたと感じることさえ傲慢なのだろう、湿った死体。淀みの魚。

でもそれも全部流れていって、流れていったってことは、ことは? げろって全部後始末。水洗って便利な文明。

認めたくないけれどわたしの心の価値は薄い、それをどうしてかなしいという? どうしようもない諦念の世界をいつも隣に置いて過ごしてよかった。
乱心の様を晒したことだけが恥ずかしい。

 

怒りがほとんど欠落している、というよりうまく発露しない。これを他人に向けてはいけないのだと思う。どうにか矢印を捻じ曲げて自分のなかで完結させて、でも怒るほどのことあった? もっと踏みにじられるくらいでちょうどいいんじゃないの? 大切に扱われてみたいと思った、それなら見合うだけの付加価値をきちんと提供しなくちゃね。

それでもどうにか苦手なりに、きちんと怒りを発露させたいと確かに思った、受け取ってもらえなかったけれど。できないことをしようとする誠実は宛名不明でおかえりなさい。

 


美しい物語を読んだからずっとそこにいたい。「言語を排斥したい」なんて何年も前からしょっぱく訴えていることが、やわらかく説得力を持って豊かに書いてあって恥じ入るような気持ちになったけれども、それでも「言語を排斥したい」とは書いていなかった。


結局のところ、
わたしは何もしなくてよくて
元気で恰好良くいればよくて
なんかもうそういうことらしい、そのあたり変わっていなければだけど。

 

「ずっと」という無限みたいなトリックの物差しを前にしたら、数ヶ月って誤差だよなあ。満ち引きする海を前にして350mlも500mlも些事、と思いつつ海水は飲めないのでミネラルウォーターはとても貴重(350ml缶で売られている水の流通量はいかほどか)。毎朝白湯を飲まなくなって数ヶ月が経って、でもこれだって誤差みたいなものでしょう。

息をしているの、どこかで。それでいい。

 

 

24時間以内に3回もブログ更新してる。10代の頃みたい。

それからこれは、彼らの曲のなかでいちばん再生数が回っている曲ですがそれ以上でもそれ以下でもない。年男なんだね。この日の武道館わたしもいた、これを聴いた、覚えている。1曲ずつ葬った、来るわけなかった土曜日は3月1日。安心したらさようなら。