僕だけは雨を嫌わない


インターネットに広がる自分を、自分の立つ足場をちまちまと解体して過ごしている。どれも脆弱だから、どこにも頼らなくていいようにたくさん設けたのに。目の前にあなたがいるのならわたしは喜んでそこに飛ぶけれど姿も見えないし。ただただ動けない。

でもまだバラせると思う、あんまり性に合わないししたくないことなのだけどし始めたら何も感じなくなってしまった。現れた的を淡々と射るように殺しを進めたがる指がいる。全部壊れれば? わたしが好んでいるものがどれだけ形骸化したものなのかを思い知ったらいいんじゃないの?

こういう行為をするひとがいるから形骸化するんだよ、とも思う。自分のなりたくないものになっている気がする、自分の信じたいものを自分で壊してゆく。

 

それでも美しいものに美しいと発作のように口にする自分を殺してしまったのは、もう開く口がない。

自分の見た美しいものの話をするのが好きだ。感情が立ち昇る手前の、動いた心を観測するのが好きだ。そういったものの話をしているときの自分は活き活きとしているような気がする。
それさえ気に食わないと言われたら、嘘だと言われたら、静かに脈拍をさげてゆくしかない。

 

集め続けたポストカードもようやく整理した。新宿の世界堂で悩みに悩んで買ってきたファイルに収めながら、10年以上前に行った展示名なんかもぱっと浮かぶものだなと思った。初めて森美術館に行ったのは2007年のル・コルビジェ展。

髪も切った。汚いものをこの身体から遠ざけたくて、もっとザクザク切るとかキツくパーマを当てるとかブリーチするとか考えたけれど、「外側は傷んでいるけれど内側の髪綺麗だよ、残しておいたらどんな風にでも後から遊べるよ」、褒められて嬉しかったから。
少しだけウルフのシルエット、丁寧にストレートアイロンを当ててたくさんの艶を出してさらさらに仕上げてくれた。似合わないとわかっていながら、量もばさばさ減らしてもらって、夏を涼しく過ごすことに振った。


そんな風に断つことばかりしているから思考も感情も曖昧で何もない。いけないことをする算段を立てる。輪郭さえも曖昧だ、形骸化しているのは、あるいはわたしなのかもしれない。恥ずかしいね。

わたししかわたしじゃない、わたしの周りはわたしじゃない。

 

 

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来月から以前よりも少し疲れるところで始めることになった、1年以上かけて確認と修正を繰り返してかたちにしてきた総ては台無しになっていた。望まなくても壊すのは簡単だ。休んでいるのにちっとも回復しないね、状態異常みたいだねって言われたのを思い出している。毒が全身に回りきっている。

わたしは頑丈だから壊れない。ここまでだって壊れずにやってきた。わたしを壊すのはわたしだけ。


全部自分の責任だ。いつだって、なんだって、傷つくのは自分が悪いからだ、傷つくような造りをしていることが悪い。そもそも傷ついていいほど高尚なにんげんだった? やっぱり自分の意見や感情はないほうがいい。

理不尽も自分のせい。運が悪いのも自分のせい。わたくしの身に降りかかることに関してはきっと全部そうだ。わたしが悪い、わたしが至らない。酷いと声を上げても言っても取り合われない、わたしの思考や気持ちには耳を傾ける価値がない。不慣れに発露させた怒りだって無駄だ、やっぱりこれはいらないものなのだ。

何をしたって否定される気がして怖い。わたしが悪いから否定される。


誰も抱き締めてくれないから自分で自分を抱いている。いつも膝ばかりが抱き締められていて、肩が可哀相だと思う。本当はあなたに抱き締めて欲しい。あなたにしか抱き締められたくない。

 

素敵なねじれのひとつも踊れないから恥ずかしい。公開するだけまた責められる種にしかならない。それでも書くのは、書かないと書けなくなることがわかっているから。

それでももうどこにも自分がいる気がしない。それでも自分を口にすると咎められて笑われるだけだ、また抽象的な言葉で否定される、怖い。だけど黙るのは癪だよねっていう細ってコケた意地か、そうでないならただの癖、っていうか癖だな、ただの癖で特に何もない散文をこうやって書いている。

何度書いても冷たくて無機質な文章になる、この記事だって何回書こうとした果てのものかよくわからない。でも何回もこうなるってことは一回これを吐ききっておかないといけないのだと思う。

 

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明日は満月、日を追うのが憂鬱だ、こんなに完全数が疎ましいのは本当に初めて。いつまでもこの土日でカレンダーがとどまったらいい。ゲームボーイアドバンスのソフトを買った。ラブホテルの隙間を抜けて美しい豆電球の連なりを誰よりも近くで。