哀しみを溢してもいいの?

 

わたしが死んでも泣かないんだろうな。こんな女々しいことを考えている、女々しいってわかっている。

疑うことは不誠実だと思っている、あなたには誠実でいたいから連呼された言葉たちを大切に信じているけれど、もしかしたらあなたからすれば「そうしたいだけ、自分の欲で好きでやっているのでしょう」と言ったところなのだろうか。大事にしたいって言った、できてないと嘆いていた、その気持ちだけで充分大事にされてると思う。今もそう思っているのなら、わたしは大事にされている。でも本当はどうなんだろうね、わたしなんてとっくに振り落とされたあとの残滓で、残滓に注ぐ情なんてないか。

 

「あなたに触れないのに」と泣いていた、わたしだって誰にも触られたくなかった、認知の歪んだ性犯罪者に容易く触られて心が歪んで、今だって寝込んでいる。気づいたら恋人はもう恋人じゃないのかもしれなくて、それならそれで構わないんだ、でもだとしたら言葉が足りなさすぎて動けない。もう少し救われてもいいと思う、傲慢かな。

わたしはそんなに虐げられなくてはならないにんげんなんだろうか、苦しい思いをするくらいしか能がないこの脳が悪い。した覚えもないけれど、いっぱいずるをしていたのかな。ひとを再起不能なまでに酷く傷つけてきたのかな。大事に、大事にしているつもりでさ、そう思ってるのはわたしだけなら本当に頭が悪いよね。相手がどう思うかだけが大切なのに。

他人の憂さ晴らしだとか逃避先にしかなれない、誰もここにいたいって言わないよね、わたしにはその価値がないのだろう。やさしいにんげんになりたい、やさしくされなくても全然気にならないほどやさしいにんげんに。でも今はやさしくされたい、安心したい。胸を衝く哀しみにもう疲れたよ。見えないものを探して、もやの中の止まり木から止まり木へ飛び回るから、やっぱり疲れる。

「結婚を前提に交際して欲しい」という言葉にはそれなりの責任があると思っている、受諾したからには、わたしはその責任を取る。解消するにもきちんと向き合って話がしたい。そう願うことは、そんなに傲慢なことだろうか。

 

今日もベッドの上で昼を見ている、音楽を流して、ここはすっかりサナトリウムみたいだ。ひとりも訪ねてこないけれど。