微笑みとあくび

 

眼を閉じているといつの間にか眠っている、という経験に乏しいのは目を閉じていることが得意じゃないからなのだろうか。真っ暗い部屋で眠る状況を自分で作ったりもしない。それでもなぜかこの場所では食事をとり終わったあとの15分くらい毎日のように意識を落とすことができて、他の場所で試みてもうまくいかない。基本的には部屋を暗くして過ごしたい、眼と頭が痛むから。

しんどいと思いながら口を開く必要はないよ、わたしは目を伏せるから。


鏡を見ていたら瞼のかたちが左右で随分と違うことに新鮮に気づく。右のほうが少しぱっちりしていて、笑うと左目が先になくなる。こんなことを言うと目が左右ひとつずつみたいに思われるかもしれないけどどこにもそんなことは書いていなくて、中央にもあるかもしれないし左右それぞれにふたつずつかもしれないという可能性は常に孕んでいる。

ひとの表情がくるくる変わるのを見るのは好きだけれど、見ていたいと思える顔は少ないし、そういう顔があったところで見つめ続けることはなかなか叶わない。人生でいちばん多く眺めてきたのはまず確実に自分の顔で、嫌悪感などもさほどないというか、飽きるほど見てきて慣れているというか。

ひとってどんな風に笑うんだろうと気になって鏡に笑いかけても自分がいるだけで、自分の顔の歪み方をひとの笑い方の代表のように誤認してしまう危うさだって当然常に孕。

 


検察から厚めの封筒が届いていた。12月に被害届を出したことがあったのだけれど、今月上旬の裁判で懲役がついたという通知。軽犯罪に数えられるのであろう犯罪で7ヶ月かかっているわけで、もっと時間のかかる事件を思った。ひとをひとり刑務所にダンクという経験、執行猶予はなかった。それ相応に少なからず傷ついたし一度は生活も持ち崩したけれど全部過去の話にすぎなくて、とっくに体細胞は入れ替わり切っている。

少し晴れた胸をなでおろして眠ったら、似たような犯罪に遭う夢を見た。

刑務所じゃなくて病院が正しい、と思っていて、バグの察知。日々引かれてゆく税金が加害者の食事にかたちを変えるグロテスクの欠片。わたしを通り過ぎた一連は一体なんだったんだろう。

つまらないし学ぶものも少ない過去の振り返りに時間なんて割いてられない、毎時毎秒いまこの瞬間のスタートアップに立ち会うことで忙しい、やることあります、違うことすべき。

 

 

穏やかにいきたいよね。認知の歪みはわたしにもある、そう、たぶん歪みなんだと思う。優しく触れたいし、優しく触れられたい。戸惑うことと優しさを履き違えたくはない、でも戸惑うことで生まれた優しさが優しさであるならちゃんと受け止めたい。

あれもこれもしなくていいそうだから、わたしは微笑みとあくびをしています。文章を書くことは好きですがいつまでもやり続けられるかというと別の話で普通に飽きるのがいつもですし、明日は肩を出します。背中が窮屈なの。何もしなくていいよと翼を縛られているときにだって頭のなかはくるくると閃光が走っていて、それを気ままに発する口に枷はつけられていない。舌を噛ませても支配させない。