死んだふりもできない

 

昨日、かなり忠実な日記を書いてしまったのが今更恥ずかしい。インスタグラムのストーリーみたい。いま見てる景色の写真を投稿した気分。でもたぶん、あれがありのままの日記だなんてわたし以外にはわからないだろう。

基本に読書感想文があるような気がする、「あらすじを書いてどうするの」だ。努めて略した、筋が溶けるほどに煮て飲み干して、自分の口腔の動きを注意深く探って語を配置する。そのうち、本を読まずに読書感想文を書くのが楽しくなっていた。タイトルひとつ、あるいは書き出しひと段落からどこまでイメージを広げてどこまで書いてゆくのかという遊び。

ただ舌を探る、自分が何を喋りたいのかを考えた。何かを喋りたいと判断するのはいつも頭じゃなくて舌だ。硬口蓋を越えて歯の裏に添えるさりげなさ、軟口蓋をゆらゆらと移動する水気、両唇音の隙をついてキスをしてもバレないか思索して、母音のかたちで押し出される空気をでこぴんで弾く。
こうやって連ねる言葉のどこにもわたしはいない。でも間違いなくわたしが喋っている。

目に入ったものを貼り合わせてイメージの隙間を縫うように舌を動かす。この作業はどちらかというと写生に近くて、そこにも個性は滲むのでしょうけど、意図的に発揮するものではないと思う。
そして、写生に近い作業を経たこれは、小説や詩ではなく日記だって思う。同じ文字数でもっと何が起きたかを整理して書くことはできるかもしれないけれど、そんなのって誰が読みたいの、っていうか書いていて楽しくないの。「サッカー観戦終わりの混雑に巻き込まれました」とかどうでもよすぎると思う。

スーパーリアリズムみたいなのが書けたら楽しいかもしれないけれど、視力も悪ければ根気も足りなくて今のところはできないの箱にある。とか言いながら、こんなに種明かししているこの文章自体はかなり具体的で秒矛盾。

こんな感じだから、わたしはいつも自分の過去を参照できない。ずっと日記を書いているのに、この文章たちから自分の生活がちっとも辿れない。でもわたしにとってはとてもわかりやすい。