死生観の借りパク

 

あたたかいひなたを歩く短い葬列に参加する、真似事未満だけどほんものだよ、現実は誇張されない。久し振りに礼服に袖を通した、久し振りでよかった。あのときは酷く寒い田舎の寺のほとんど屋外みたいな堂にたくさんのひとが詰めたけれど、本当にささやかで、ちいさくて。やっぱり真似事をしているみたいだった。

 

0歳の子どもを抱きながら食事をした数時間後に訃報を受け取った。不本意に巡るいのちが不気味に思えて、巡るものを一回全部止めたくなった。この血が無意味に床にこぼれたらいいのに。源泉かけ流しとか、なんかそういうものがいい。でもどうやったって水はいずれ雲になって海に辿り着いて、わたしの涙も汗も唾液も全部全部、余さずその巡りに巻き取られてゆく。

 

報を受け取った日、「しんだ」と自爆癖のある友人から連絡が入った。他愛もない会話のよくある発端だったれど、そこから先はいなくならないでくれと繰り返した記憶しかない。訃報を受け取ったばかりだということは伝えていなかったが訝しがられることもなかった。関心の比重と日頃の行いの結果だと思う。わたしが最後に見たあなたの纏う雰囲気の線の細さをたまに思い出す、そのたびさみしくこわく、心細くなって、さっきもばたばたと泣いていた。

 

「いつか私が死んでもお花まみれにはしないでね。」

 

そんな最中になんだけど、ときおり目の前にいないチバがよぎった。

音楽に詳しい友人のいちばん好きなバンドはtmgeで、訃報の翌日にたまたま少し会う機会があった。どうということもなく楽しい会話をした、その辺を歩いている気がするよね、とも。数日後の夜中に連絡が来た。

「49日までこの世にいるらしいけど、あれだけマリア像のネックレスしてたひとがそんな仏教の概念に押し込められると思わないからずっといると思う」

 

アベの訃報のあった日に初めて2人で遊んだひとは、結局それ以外に2人で遊ぶ機会なんてなかったと思う。なんなら最後に会ったのがそのときかもしれない。ふと連絡をしてみようと思ったけれどこちらからメッセージを送る手立てがなかった。どこにいるのかは知っている、子どもが生まれたという新しい投稿が見えた。それならどのみち連絡を取ることはしなかったかもしれない。

 

高くない生存率を宣告されている友人はギリギリまで粘って未熟児を取り出して、直ちに全身に放射線を浴びた。たくさんの内臓が壊れ、そこには子宮も含まれている。今もって長く複数の肺炎にかかっているのは落ち込んだ免疫のため。
一緒に生活を送る相手の態度がひどいのは前から聞いていたが、ついにものを捨てられたり、いっそ病死しろと言われたりしたそうだ。わたしが渡したものをゴミ集積所から探して拾ってきたと聞いた。気丈で淡々と受け答えする風変わりな彼女が全力で目を逸らしても、希死念慮はそれでも隣にあって。厄介だ。

 

「生きて生きて生きてください」と繰り返すだけのサビ、「大丈夫いまは生きてる」と書いたのと同じひとだなそういえば。

 

「君を失くすこと」より「君が失くすこと」をこそ正確に恐れている。そして君が失くしたら、君を失くしたことになる。わたしはそういう視座でいる。

生きているわたしたちが葬列を作る。死者は先頭にいて、列なんて絶対に見えやしない。