dress me up


彼女と初めて会ったのは17歳になったばかりの頃。16歳の頃インターネットで知り合ったひとに紹介されたのが彼女のブログだった。何をどうしてコンタクトを取ったのかなどはさっぱり覚えていないが、とにかく下北沢で会った。人生で二回目か三回目の下北沢。わたしは化粧を覚えるのが大層遅かったのでファンデーションも口紅も塗っていなかっただろうが瞼はおそらく紺色だったはず、切りたてのマッシュルームヘアー。現れた彼女は洒落た色使いのメイクをしていた。カフェでワッフルを食べて、これから男に会うからと女が言って、それで別れた。そこから数年間、特に会わなかったし目立って連絡もしなかったように思う。
不思議だな、と思いながらビビンバを掬った匙を口に運ぶ。いろいろな風向きがあり、彼女と向き合って食事をし、飽きもせず服や化粧品を眺めて歩いた。デパートのなかは様変わりして、お互い髪色も服装もきっと変化があって、中身だって当然変わっているはずで、それでも変わらないものを並べて話している。性質、というのが近いのだろうか。お互いにお互いではない。当たり前のこと。誰かの気まぐれで変わる風向きに準じたり逆らったりしながら、少なくともその日は韓国料理を食べていた。

思考と感情と言語の関係について考える。
表情や仕草といった非言語コミュニケーションが占める割合は高い。それでもわたしは言語コミュニケーションを諦めたくないから脳からそして口腔や唇を使い、あるいは鍵盤を叩くこのように。

明快で簡潔な言葉で論理を述べるつもりがない。
言葉を乱暴なものだと認識している。言葉は狭い範囲の話しかしない、狭い範囲の話に集約させるのに有用なツール。計算式のように一目で示すものとして機能する。
でも身体のなかはとても広い、思考も感情も収めている。だから言葉じゃ到底足りない、わたしが望むのは言葉の変形だ、身体を切り落とさずに済む言葉を見繕うこと。カッターナイフを持ちたいわけじゃない、切り落とされて綺麗な辺を持つかたちになる前の思考や感情を言葉にしたい。だから、わたくしはいつも大変にまどろっこしい。

でもこんな愚策で出来る範囲は決まっている、それでも最善は尽くしてく、わたしの限りは尽くしてく。
それを例えばね、たとえば「あいしてる」のひとことですべて包含してしまえる日があっても、包含してしまえたら、あとは唇を結んでいられるのかな。あなたの頬を両手で包んだまま、何度もキスをせがんでしまったのはそのせいなの?