あなたのことを避けて生きたら何がわかるの何がわかったの


そんなつもりはないのに自然と選ぶ音楽が秋めいている気がして、なんだか恥ずかしくなってしまった。ほんのひと月ほど前は体温ほどもある気温に境目が曖昧になってとろけてしまっていたのに、今はもう寒くて、自分の個体の限りを思い知らされている。早寝をしても疲れが取れない感じがするし、やたら身体が強張っている気がする。「きんしかん剤のんでがんばるきん」などというおどけたもじりの文句は繰り返し言うほどの強度のあるおかしみを含んではいないと思う。
そろそろストール出さなくちゃだ、と呟いたら「さすがに早くないですか」と鼻で笑われた。


インプットもアウトプットも上手くいかなくて、作業音だとか誰かの話し声とか、あとは天井が水面のような光でゆらゆらする何かを設置して、その嘘つき貝の海底でほうけたりしている。9月はほのかに忙しくしていた、その残滓の始末もまだ残っている。
不安定を交互に繰り返して、血が通っている者同士であることを確かめる。それは輪郭をなぞる作業にも似て、なぞった頬は赤く濡れている。いつもイメージの世界で生きていてどうしようもならないな。どうにかしたい? どうなんだろうね。


あれ、去年から会ってないよね?と話をした友人とお気に入りのケーキを食べながら、なぜケーキを食べていたかと言うと手負いの虎に腹部を噛まれていたからなのだけれど、彼女に「結局わたしは解釈が好きなのかもしれない」という話をした。
もうとっくに昔の話だが、むやみと解釈をしたがった時分に、むやみと解釈をしたがっていたわたしに興味をもってくれた彼女は、なるほど~と言いながらふたつ並べたケーキを食べていた。ショーケースの前で選びあぐねるわたしに「大人なんだから、自分のお金なんだから、いくつ食べたっていいのにどうしてそうしないの?」と言ったから、わたしの前にもケーキは当然ふたつあって。
なんでもいいから読みたいし、読んだものを解釈してみたり、ほかのひとの解釈を見たりしたいんだよね。だから占星術でも勉強してみたら面白いかなって思ったんだけど「君がやるとハマりすぎっていうか、意外性がなくて逆に面白みがないっていうか」だよね、わたしもそう思ってさあ。


こうやって指を走らせているのは楽しい、誰も興味がないことをただ自分のために書き散らかして、自分の持っている言語のかたちを確かめている。身体からすっかり言語を排斥してしまいたいと強く願っているのにこうやって確かめずにいられないジレンマはなんなんだろうね。
言語は血みたいなものなのだと思う、巡りが悪くなるとゆっくり確かに硬くなってゆく。


思うだけでよいのなら、肉体はなんのためにあるのだろう。通じたいという欲は、自己完結できない他者を必要とする欲の総ては、慎みのない恥ずかしいものなのだろうか。そんなことを考えながらも、真にひとりで持ちきれないものが、果たして、この身に、あった?
口の中でほどけてゆくほろほろのクッキーのような質感の精神たちをミルクに溶かして飲み干してみたいね。「ちりじり」という言葉の「じ」を見ていたら淋しい気持ちになってきた気がした、日本語表記上のルールと聞いたけれども、「しにてんてんを使いましょう」。

 

リライトの歌詞みたいに「僕に残高証明をくれよ」と歌ってみたりして過ごしている10月の頭。
「ねえできるかできないかって言葉ってどんなのがあるっけ!?」「なんて?」「できるかできないかをひとことでさあ!」「か、可否はどうですか」「可否!」

 

タイトルは「水上テラス」という曲の歌詞の一節。好きな曲です、たぶんこの世で10人くらいしか知らないけれど。わたしはこの曲が好きだった。

 

ねえ、今月は満月が2回あるからきっと全部ずっと必ず大丈夫だよ。