やわらかいソーダ水

初めて会ったのは確かライブハウスの前だった。今でこそ地元のように馴染んだ土地だけれど当時は行く機会もあまりなく、それでそちらのほうに行くからと声をかけたのだった。落ち合ってから家までは歩いていったのか電車に乗ったのか覚えていないけれど、家のそばのミニストップでホットスナックを買ってもらったのを覚えている。
そうして家に上がりこんだところで何もしなかったが、ただ大丈夫だよと言って一晩抱き締めて過ごした。わたしはそうやって生きているにんげんであることを忘れてはならない。汚いことをしているつもりはひとつもないけれど、なんだか健全ではない気がする。でもわたしにとってはそれが無垢なものだった、誰がなんと言おうと。


困り果てた友人が誰かと話して整理したいと言う、ファンでいることをやめる選択が潔く格好良く見えるのだと言った。住宅地のファミレスは閉店が早い。


誰かを抱き締めたことで変わってしまうことってあるのだろうか。抱き締められて変わってしまうことってあるのだろうか。この矮小の肉体の限りで一体何が出来るというのだろう、生命のぬくみ、血の巡り、肌のテクスチャ、それくらいしか持たないままで、一体どうやって生きてきたのだろう。
天文学的な確率で生まれてきたらしいわたしは、でも何桁以上の話を「天文学的」と形容するのか知らないまま生きている。
そう、生きている。どう思いますか?


なんだってどうってことないけれど、10月から4月にかけて次々に身の回りが変わるようで淋しさと不安がある。恥ずかしながら口が汚いわたしは、軽口を叩きあっているときにようやく安心できるから、毎日のように軽口を交わす相手と会わなくなるのは心配が多い。品よく、お行儀よく、粗相のないように、そうやってきょろきょろしているだけで寝込むくらいには摩耗する。にんげんかんけいはむずかしい。そういえばスペイン坂の「人間関係」のスコーンが食べたい。あとは会いたいよ。