nunonun


アルファベットを美しく並べる友人がいる。一見単語のようなので、それはなんて読むのって聞いてみても知らないと答える。これ読めるのかな、と。まったくの造語らしいのだ。彼女は言語としてアルファベットがあることをわかっていて、更に美しく並べられる記号として捉えていたりするのだろうか、それは素敵だな。わたしにはできないし。彼女のTwitterのIDやメールアドレスを見たりしながらうっとりする。
しかし「blackbrake」ってこの上なくださいなと思いながら、でももうずっと使っている。意味はないが由来はあるので、愛着はあるよ。たぶん必要に迫られて一瞬で考えたんだと思う。だっさ!と思われている自覚はあるけれど、手放したいとは今のところ思わない。「衣魚」という名前をつけたときのことはよく覚えている、あれこそ30秒くらいで決めた。気に入っている。
そういえば、今まで一度もメールアドレスを変えたことがない。初めて携帯を持ったのが中1の12月だったからそのときのセンスで考えたものです。これがまたださいんだ、でも自分ぽいなと思う。それこそ使い続けてるからかもなあ。

言葉を美しく並べるひととアルファベットを美しく並べるのは、わたしにとっては近い感覚です。


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何ヶ月か前、「記憶」という題でエッセイを書けとのお達しがあったので、ゴテゴテでノリノリのもの書いて提出した。やっつけ仕事で。大事な評価をされるわけでないし、ちょっと大袈裟にキメキメに書きたい気分だったのね。後日、江東で「文に酔いながら書いている感じがする」と言われて笑った。その通りです。


「美しいということを知っている、それを充分にわたしは知っているが、では知識とはなんだ。知恵とは。揮発させたものがしんと凍り、したたり落ちて鼻先を掠めた。身を切るようなその冷たさを美しいと思った、それは知識がゆえか知恵がゆえか、答えは出せないまま美しいと呟くばかりだ。その美しさを愚かさと呼ぶのならば、愚かでありたいとふと願う。純度の高い残虐さを内包して笑ったり泣いたり、穏やかでいられるのは愚か者の特権だろう。あるいは、答えを出し切ることができたら、やかり同じような心持ちになるのかもしれない。」


例えばこういう口から出任せを言えてしまう。
できるだけ、わかる言葉で書こうと思っているんだ、ここ数年はそう努めている。日記自体がまずこんな調子なのに、自分にすらわからない言葉で書いた日記なんて、怪文書でしかないのだから。


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さっき読んだ友人のブログの比喩がとてもいいなあと思った。優しくてまっすぐできちんと情景が目に浮かぶ。
タワーレコードの袋で埋め尽くされたその部屋は、ひまわり畑のようだった。」

羅列の美しさにしか興味がなかったのかもしれない、アルファベットにせ、なんにせ。言葉の意味を二の次にしていて、いちばん分かち合える使い方をしていなかったのではないだろうか。
そんなことをふと思ったので、いそいそとブログを書いています。書き終わりました。