Love is in the air

自分の頭がよくないことには薄々気づいていた。

こんな浅ましい話題を口にするのも恥ずかしいのだけれども、気づいてしまったのだからどうしようもない。

 

ずっと、知恵を以てして知識を束ねるような、それでいてユーモアのあるにんげんになりたいと思っていた。

既存の型を強く意識せず囚われもせず、するするっと柔軟に軽やかな手際で、糸を通すように思想を添わせ通すような、そういう存在への憧れが強いのだ。

ほら、この漠然とした像しか抱けない辺りが既に後手に回っている。後手後手。ごてごて。

 

うんと前から、自分がちっとも理性的でないことには気づいていて、手を滑らせたらこぼしてしまいそうなほどの感情の水槽を抱きかかえているようなイメージ。

そのくせひとを巻き込む力はない(巻き込みたいとも思っていない)ため、ひとりで熱にアテられている、そういうにんげんだ。

極めつけは、目の前のものを見境もなく愛してしまう愚かさが豊かだ。

 

へらへらした表向きの愛想の良さで笑ってみて、相手が笑っているのをみるとなんだかわけもなく嬉しくなる。もちろん例外はあれど、大まかにはこういった仕組みで動いている。

 

 

事務の仕事は楽しい。

新しい仕組みを構築しようなどと奮起する際は別として、優先順位を判断したら、あとは手順に沿って淡々とこなしてゆけばよい。合間合間で頼まれる仕事を交えて優先順位を再構築し、手持ちにするなり誰かに頼むなりする。

 

どうも、「淡々とこなす」のが好きなようなのだ。

ひたすらに一日中電卓を打っていても、ひたすら表と書類を見比べて数字があっているかを確認していても、多少疲れ目が生じる以外ちっとも疲れない。

指先でなぞった数字が全部流れ込んでくるような感覚さえあって、ああ、思考を介さない作業を淡々とこなすこと結構好きなんだな、と思った。すっと機械になることを求められる瞬間の、感情を一切使わない感覚が心地よいのかもしれない。

 

先日友人の家の手伝いをしていたときも似たようなこと思った。

彼女はとても頭が良い、いわゆるマルチタスクが得意で何かを先回りして先手先手で物事を運び、かつ論理的で口が回るし豪胆だ。とにかく効率がよく、効率の悪いものを正しく批判することも得意である。ただ、持ち物が多いので部屋は汚い。

そんな彼女が、ついにCDをプラスティックケースから不織布のケースに詰め替えるという。その作業を任されたのでひょこひょこっとやった。想定より大した時間もかからず片手間でできたように思う。

彼女に「もう終わったの」と驚かれたのが印象的だった。その作業はいつまでもやっていたいような楽しさがあった。これを集中して楽しめるのは自分の能力なのだろうと、実感を伴って納得した。

一方で、「効率を追い求めてしまうから単純作業の反復は苦手」と彼女は言った。その言葉にひどく惹かれてしまう。だってほら、なんかイカすじゃん。ok all right 具体性はないよ。

 

なんかもう、アプリを都度落として便利に使う携帯端末のようなにんげんだな、と思う。こういうにんげんは、わたしがまったく憧れていなかった、むしろあまりなりたくないと思っていた像に近い気がする。

 

ひとと話していても、このひとはこういう冗談を言うからそれを笑うと喜んでくれる!と思うことがある。無理に笑ったり愛想笑いをしているわけではなくて、自然に笑いがこぼれてしまう。

愛してしまうのだ、いとおしくて嬉しくて仕方がない。その結果、ただ笑う。

 

気づいたらそこそこいい時間になっている。

このようなとりとめもない話を順番も考えずタイピングするという、この作業がまず好きだ。

「事務の仕事さえも、バーカウンターでお酒を出し、お客さん談笑をすることに通じるのではないか」という実感を持った話をしようとした気もするのだけれど、話題を適当に転がすため一向に踏み込むことなくこの記事を結ぼうとしている。

 

でも、淡々とやること以外に、ひとが笑ってるのを見るのが好きでよかったな。そういうとき、ほんの少しだけにんげんであることを思い出せる気がする。まあ感情という辞書アプリを入れた携帯端末なのかもしれないけれどね。

 

はあ、それにしたって、自分の思う頭の良さを持つにんげん、やっぱりなりたいものだねえ。