あの日所有格になっていた生命はいま何をしているんだろう


エレクトロニカを聴いて過ごしていたのだけれど、屋外に出たらにんげんの声が聴きたくなって電車に揺られながら聴いていたアルバムの数曲目の歌い出し、「輝く太陽はオレのもので きらめく月はそうおまえのナミダ」の旋律と対比の美しさにはっとした月曜日。月は太陽の光を受けて輝くものだから、オレの太陽を受けないことにはおまえの月は、ナミダはきらめかない。ひとりで流すそれはどうなるのだろう、暗くて冷たい小さな水に過ぎないのだろうか。

 

今日は晴れの満月で時期としては申し分がないから、電車に少し乗って桜を見に行く。降りた駅の近く、つまり通っていた中高の近くのコンビニで缶チューハイを買って飲みながら桜の下を歩く。昨日の雨なのか日当たりが良いのか品種なのか、葉桜が多くて坂を下って違う道を歩いた。こうやって何度も歩いた。授業が終わった年度末も、授業が始まる期首も。不意に、わたしは千代田区の亡霊だ、と思った。自分がもうこの土地に籍を置いていないことを理解していないのかもしれない。

そう、わたしは何も理解していません。ここに誰がいてもいなくても、自分がどこにいてもいなくても。大丈夫、全部投影されているようなものだよ、自分含めてそうだよ。何年か前に同じように散歩したときに見つけた小さな公園にはあれ以降一度も辿り着けていない。でもきっとまた見つかる、なぜならわたくしは公園が好きだから。

 

一駅歩いた先で缶チューハイをもう一本買い足して、飲みながら満月を見上げる。桜と満月。昨日の雨で散った桜が積もって乾いて排水口のそばで固まっているのをいくつも見た、たまにそれを靴の先でほぐすように散らしていた。万物は流れ行くものだから美しいと聞く、自分がそう思っているのかどうかはあまり自信がない。

輝く太陽はおれのもので、きらめく月は、そう、お前の涙。

 

電車内、頭上のポスターをふと見上げたら依存症啓発のポスターだった。発行元を探していたら「神奈川県 依存症対策」と検索窓を模したデザインで示されていて、乗り込んだ電車が京浜東北線だったことに気づいた。
復路でまた続きから同じアルバムを再生すると、程なくして「桜の花、舞い上がる道をおまえと歩いて行く」という歌い出しで曲が始まった。歩いてきたよ、と誰に言うでもなく思う。

若い男の友人(生後4ヶ月)の母のひとから数枚の写真が送られてきたのを開くと、ぴかぴかでふくよかな命の流れる血を内包するまるい身体を膝に乗せて、笑っている自分の横顔の鼻筋が現れた。