力の限り侵すため「力を抜いて」とあなたは言った

そういえば、満月まだだよって指摘するとき、「見てみな」って言える場所があるのかっこういいなあと思った。高架の月は雨にも雲にも負けなくて、理知的に白くて黒くて透過されている。


脳はいつも甘く痺れて混乱をしているが、絶対に矜恃はブレないし、気は確かだ。この世の哀しみの総てを哀しみ尽くすことができないことが哀しくて肋骨を折っていた日々よりは幾分健やかに過ごしている。総ての憂いを一身に引き受けたかったのは、どこまでが自分かわかっていなかったからだったのだと思う。鼻につく、でも蹴飛ばせない。

 

朝イチでルクトゥンオアダイ「外来語じゃハルマゲドン」から、うぐいすの谷「うるせえ お前の笑い声 キスをやめないで」で広めに振り幅をとった。電車は昨日同様ガラガラだと感じたが、それでも昨日の夜には「未だに都内の通勤電車は!」みたいに電車内の写真が取り上げられているのを見ました。いや、だから空いてるじゃん、としか思えなくて、日々ひととひとの隙間に身体を滑らせて、一体何をしているのだろう。やるべきことは大体昨日片づけてしまったので今日は封筒に紙を貼り付けるなどをしてすごした。何かしらの花を見ながら散歩などしたいよ、今年は梅を見に行けなかったこと、まだ引きずっている。

 


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のどかな昼下がりだったので頭の中ではセツナがぐるぐる流れている。

夕暮れの街切り取ってピンクの呪文かける魔女たちの季節
緩やかな放物線描き空落下するパラシュートライダー
はじめっから汚れちまってる眠ることのない魂
また今日もいつものところで待ってるセツナの恋人

 

タワレコの視聴コーナーで、へえサニーデイ新譜出るんだ、と何気なく立ち止まったときのことを覚えている。この曲を聴いた。言葉が気持ちよくて一瞬で落ちた。でも「桜 super love」に収録されてるライブ版のセツナもとても好き、ライブでサニーデイ見たときセツナの凄まじい気迫で立ち尽くしたのも覚えてる。そして結局「若者たち」で泣く。口元はいつも緩んでるから指突っ込まれたらひとたまりもない。聴こえてくるのはスガシカオの「19才」。このように引用まみれで生きている。

 

必要なときに剣を取れないならさがれ、わたしが剣を抜く。わたしは既に同じ戦場にいない、だからこれは、盾にもなるよ。

 


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書くことは罪悪なのか、などとまた、結局振出しに戻るというわけ。誰にも、自分にすら障らない文章など価値がないけれど、傷つけたり、翻って自分を傷つけたりするくらいなら筆を折ってしまおう、なんて、簡単にできればとっくに黙っている。いつも諦めが悪いのだ、生きている限り言葉は尽きることがない。そして本当のところ意欲的に諦めるつもりが、おそらくはないのだ。書き留めておくのがいのちに対するわたしの敬意である、とかなんとかもっともらしいこと言って、こうやって喋るのが気持ちいいだけでしょう。
友人の言葉をひどく気に入ってる、「私も人の子なので、僭越ながら詩の一つや二つ」と。とどのつまりはその通り、それ以上でも以下でもなくて、「いのちに対する敬意」? 笑わせてくれる。お喋りな脳がここにあるだけ、よく踊る指がここにあるだけ、震える感情がここにあるだけ、書き留めたいという欲があって、残酷なほど観察をしたがる子どもがいる。書かない理由はいくらでもあるが、書きたい気分がだらだらと続く。滅多に吹かない風だから、楽しくなってはためかせている。自分の舌を気持ちよくするためだけに、わたしは大いに喋るのだ。


自分のためにだけ無責任に動く舌、当然やっぱり気持ちがいいな。文章の醍醐味ってここにあるよね。脳と脳を擦り合わせてみても気持ちよくなっちゃうだけなのはたちが悪いことにすっごくいい。セックスするのにだって肉が必要なのに、その肉をすっ飛ばして骨の内側で触れ合うわけだからいいに決まってる。不自由な肉がないと逆に不便、そういう脳をしているから、肉体があるくらいでちょうどいい。だって精神だけでは何度も何度もひっきりなしに為せてしまうでしょう、だからわたし、かつて何度も神様を惨殺した。