脳つっぐちゃて水


「少しの痛みすら与えずに、君を愛してあげる」


上記の言葉が古い日記に書きつけてあった。引用のようだが、何かの台詞なのかそれとも誰かから聞いた話なのかはちっとも覚えがない。でも当時の自分がこの言葉を読んで絶望したのと寸分も違わぬ気持ちで、やっぱり後ろ暗い絶望を感じる。突然目隠しをされてしまったような、全身の力が抜けて抵抗ができなくなるような、そういう恐怖。


そもそもそんなことは可能なのか。
痛みというのはつまり痛覚の刺激であって、そこに肌や粘膜、ひいては自分の輪郭があるということだ。痛いのは自分じゃないものがそこに触れるから。肌は邪魔だ、肉も邪魔だ、とはいえそれがないと、ひとのかたちが保てない。痛みがないと自分のかたちもわからない。
「少しの痛みも与えずに」というのは、侵略とか侵入の類で、それと気づかぬままに、自分以外の者が自分に対して何かを施すということだろう。施したものが愛だったら。本当に恐ろしいことだ、肋骨から心臓が滑り落ちてしまうだろうし、口は叫びのかたちのまま黒く深い穴となるだろう。甘ければ甘いほどなお恐ろしい、自分を喪失するのは簡単なことだ。いつまで経っても自分は自分になれないと嘆いているくせに、一丁前に自分を見失うことができるのだね、お前は誰のつもりなんだよ。
なんにせ、痛いというのは安心。そして何度も思い知る、できうる範囲で重ねたところでひとつになど到底慣れない。全人類が蜂蜜だったらことはもっと簡単なはずだった。少しの痛みすら与えず、総てのことが為せるはず。


脳について考えることによって、脳をこねながら今日を過ごしていたのでぐっしょりです。パンの耳一辺を食んで満足する小鳥のような生活。脳みそこねるのって絶対快楽。音楽が気持ちいいのは耳が脳に近いからなんじゃないの? 頭掻き回して楽しいよってしてる。でもそれはそれとしてミラーボールの下には行きたい、身体が振動を恋しがっている。
言葉が静かになったあとは大体腑抜けてしまう、明日からがどうなるのか想像もつかないので空回りすぎて呼吸が乱れたりもしたが、華麗に終わらせてしまったらやっぱりのんきなものだった。華麗に終わらせたあとに「では明日も」なんて言わないで欲しかったけれど。腑抜けの二乗、もうふにゃふにゃです。

 

嘘つきバービーなんて聴いてたから脳みそこねてたのかもしれない。


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気を失うほど楽しいのがいいねって波多野は歌ったけれど本当にそうだよね、首が締まれば愉悦にもなる。背中の羽を一本頂戴。

パニックを起こして泣いていると、天使であるあの子は直ちに写真を送ってくれた。一瞬なんの写真かわからなかったが、「意識だけこの安全な空間に移してごらん」、あの太もものかたちはわたしだ。肩の上で切り揃えられた髪、ああ、いつのものか、なんの写真かはっきりとわかる。だらしない格好でアルコールを求めてフロントにコールしている去りし日の、下着でうろうろしてんなよ。でも天使の前だから、僕は世界一無防備。写真があるということは眼差されていたということ、時間を超えて肩に触れるまろやかな視線、そんなくすぐり方ったらない。やっぱり泣きたくなる。眼差す/眼差されるについては思うことがたくさんある。

 


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明日から諸々の商業施設が閉まるというので慌てて頼んでいたものを引き取りに行ったついでに、うっかり口紅を買ってしまった。名前が素敵だからいけない。ワインみたいな色。持っていないテクスチャだからok。

試した口紅塗ったまま歯医者。
診察台に寝そべりながら、そういえば下の親知らずを抜くとき、携帯端末の録音アプリを立ち上げて診察台のそばにおいて、抜歯作業の一部始終を録音をしていたことを思い出した。口の中で焦げる匂いと、骨にノコを弾く音が頭蓋に響いて、鼓膜と骨伝導とで脳にぞくぞくキちゃって、こんなのテクノじゃん!いまわたしテクノじゃん!!などと。とにかくひどく興奮したのだ。他にもときめくといえばピアスしたまま撮られるレントゲン写真。何も知らない肉を貫く金属の非情さを見ると堪らない気持ちになる。乱暴な気持ちがとろとろと湧いてきて指先まで気持ちよくなってしまう。

 


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満月ですよしかもスーパームーンね、という通知メールを見たので満月だ!と思い込み、そのように伝えたところ、不正解です明日ですよと指摘され、恥じらうなどする。でも月は今日も綺麗なので問題のないことにした。つまり明日は満月だから、全天、晴れて。
月というのはどうにも他人に思えない、脳波をいじるための親切な機関を持っている異様な雰囲気の隣人みたいに思っている。これが満ちれば気が狂ったり澄み渡ったりするわけで、28日間で満ち欠けするの本当にこわいよ。自然界に散りばめられた完全数の、いちばん目立つ強い力だと思う。夜中に突然満月が見たくなって裸足で飛び出してうろうろ歩いていた日もあった、あの引力には敵わない。わたしは大きな水であり、感情もまた水であるから、どうしたって引っ張られる。月の乱暴さと静かに光る佇まい、本当に愛おしい。