句読点のない情熱を


どうしようもなく恥ずかしい。今日ここまで生きてきたことも、あの日を生きたことも、明日を生きるつもりでいることも。どうしてこんなに恥ずかしいにんげんになってしまったのかを考えている。生命は尊い、言うまでもない。それでも恥ずかしくて堪らない。ひとに接したくないのは恥ずかしいからだ、恥ずかしいと思っていることがまた恥ずかしい。死なずに生きてきた、誇ったっていいはずなのにただ恥を感じている、この心持ちが恥ずかしい。あの日死ななかったことが恥ずかしい、でもそんなことを恥じているようではこの先一生何も誇れないだろうな、と思った。

わたしは生きています。生きているので思いつきで演劇を見に行き、本屋で泣きそうになり、詩集を買うなどした。周りにひとりもいなくてもここまで掻き集めてきた言葉が無数にあって、その言葉だけでどうにでもなる気がする。言葉の数だけひとが存在したことを理解しているから、大切にしたきた言葉だけ眺めて過ごしていられる。「途方に暮れて未来に逃げてなおさら暮れて過去へとすがる」。


どんなに恥ずかしい生命だとしてもわたしは言葉がないと生きてこられなかったような気がしていて、それは本でも歌でも会話でも手紙でもなんでもよかったのだけれど、なんにせこうやって糸を縒り合わせるようなことをしている。話すことは恥ずかしくないのかって、そりゃあ恥ずかしいよ、何年話し続けたって一向に言葉を選ぶ精度は上がらないしね。
それでもわたしこそがわたしの世界だ、だからここは、本来どんなふうにだって造園できるんだよ。甘いも辛いも色合いも温度も総てが自由。そんなに自分を追い詰めてはいけないよ、恥ずかしいなどと言って辱めて、それってただのマゾヒスティックな趣味とどう違うの?説明できる? できないなら随分と不自由になってるってことだから、例えば楽になれるように周りを見直したほうがいいし、それをする余力もないなら病院行って治療を受けて薬飲んで寝て、必要に応じて保護してもらったほうがいいよ。どうしてそうまでして生きるのかって? うーん、明快な解はわたしも持っていなくて、だからこうやって悩んでみたりするんだけど、大丈夫、書いてるとすぐに気持ちよくなるよ。ほら、力抜いて。一緒にきもちよくなろう?そのあとでも遅くなくない?


あらゆるものを排斥してぬいぐるみを抱いて恍惚としている。頭のなかを言葉がぐるぐるする、元々がなんの言葉だったのかももう判別がつかない。身体が上手に動かない、頭だって自由に動いてない、指だけが勝手に動いている。何も考えていたくないのだと思う。

スカートも鞄もおろしたし、わたしは苦しくなるくらい十二分に自由だ。こうやって書いたそばから全部変わっていくんだ、日記なんて何日も寝かせるものじゃないんだよ。さっき書いたものはどうしたの?関心が失せたの? 失せたの。あ、そう。

 

 

それとこれは 「死ぬほど好きだから死なねーよ」です、石井僚一。

あなた、すごく日あたりのいい水たまり ねえ、なんでそんなにやさしかったの?