最近は中野坂上で探偵ごっこ

 

貝の砂抜きを見ているのが昔から好きで、ただ砂抜きを見ているというだけの日記をいままでに何度書いただろう。新しいこととしては、今日はわたしが貝です。ざらざらと吐いた砂の量を見て、綺麗になった内臓を感じ、あとは誰かの口に入るのだろうかと考えている。身体から潮が抜けてゆく、どんなものだって「現象」と呼ぶことができるはず。これを書き終わったら現象の意味を辞書で引こうと思った。

 

 

:::

 


>>201106

先の記事(「経年グラデ」)を投稿して30分もしないうちに結局こうやって書き始めてる。

友人が出産した。2月に一緒にPerfumeのツアーに行こうと企てて、その回だけ疫病騒ぎで中止になった。その前日の公演が映像作品としてパッケージングされているのを数日前タワレコに行って知ったばかりだ。
こんな状況でひとのことを誘うことができないと思っている間に、7月の初日、雑な健康診断を受けた午前に「安定期に入ったから報告します」と妊娠の報を受けた。ああ、来るときが来たなと思ったのを覚えている。そのまままたしばらくは会えないだろう、会えないまま出産をした。疫病の流行りのせいで立会いどころか産後しばらくは配偶者さえ見舞いに来られないらしい。


知り合った頃の彼女は広島のひとだった、仕事での命。ほどなくして関東に戻ってくるという話を聞き、引越しの前日だったかの夜、何もない部屋で何度目かの電話をした。ものがない部屋だと声があんなに響くのかと電話越しに驚いたのも新しい。
それから比較的よく遊んだのではないかなと思う、何度となく家にも泊めて貰った。伺う限り広島ではひどい恋をしたらしかったが、関東に戻ってきてからの彼女には恋人ができた。その恋人にも何度となく会った。静かだけど穏やかな、とにかく柔和な男性。

2-3年に一度くらい、ひどく気のふさぐ時期が来る。3年くらい前は随分長びいた。ひとの悪意が怖くて堪らなくなり、外出も友人も怖くなって、随分陰鬱に数ヶ月を過ごした覚えがある。その前はたぶん5年前だ。そうだ、どちらも秋。

5年前のほう。ひどく落ち込んで小食になり、また憂鬱と栄養不足で朦朧とした回らない頭では会話の成立も難しい。そんな状態のわたしを拾ったのは彼女だった。少し前から会う予定をしていたにも関わらず具合が戻らなかったのだ。
たしかそう、お気に入りのチーズのお店で会ったのだった。食事を終えた彼女は、「うち来る?」と言った。突発的な予定が入ることを嫌っている彼女からしたら随分珍しい誘い方にも思えたが、面倒見のよいひとなのだ。
翌日は彼女の車で横浜をドライブした、車内BGMは無罪モラトリアム。これなら食べられるかな、と中華粥の店に連れて行ってくれた。上手く話せないで混乱している様子を見ても何も気にせず、ただ温かいものが口に入るようにしてくれた。マーチンの絵具と画用紙も出してくれて、紙を着彩して遊んだ。絵を描くのが好きなひとなのだ。
ああいう種類のやさしさを差し出されたことはとても貴重だった、ただ許されていると思った。思い出すと今でも嬉しくなるよ、わたしには何もないのにさ。
初めて友人の結婚式というものに行ったのも彼女。やっぱり横浜だった。

他にもいくつかの思い出が走馬灯のようにぐるぐるして、おめでとうと返した後に淋しくなった自分が嫌になったのだ。「置いて行かないで」という感覚があって、これはここ最近長らく続く不調の気分。振り返ってみればこの秋もゆるやかな不調のスパイラルにある。

 


>>201108

紀伊国屋ホールで「ハルシオン・デイズ2020」を見た。高校生の頃にたまたま戯曲本を読んでずっと印象に残っている作品が再演になっていると知ったのは紀伊国屋の前を通りがかったからで、公演期間も長いしチケットも買えるみたいだし、どこかで行こうと思っていたので翌日の公演のチケットを取った。期待していなかったが見やすい座席だった。
入り口でフライヤーに手を伸ばそうとして、帰りのほうがいいかなと引っ込めたら近くの方が「お持ちください」とでも言うようにフライヤーを指した。マスクをしていたけれど鴻上尚史、そのひと。彼は帰り際も同じところに立っていたし、開演前の影アナもおそらく録音ではなかっただろう。
元の本の大筋はそのまま、疫病や自粛警察といった単語が無理なく織り込まれていて脚本と演出が同一人物であることの強みを感じた。とにかく久々の観劇は清々しかったし、なんとなく演じる姿はとても活き活きとして見えた。舞台の上を眺めるのが大好きだ。客席やフロアはどこまでも奈落、そこから見上げる舞台。

そしていつもの動線にのって詩歌コーナーへ。なんとなく手にとった歌集を開いたらやけに泣けてしまって、結局そのまま買って帰った。

 


:::

 


数日前の文章さえひどく古びて見える。わたしの言葉ではあるが不自然な言葉に見える。言葉がないと生きてこられなかった気がする、と数日前書いたけれど、こんな萎びた言葉でも生きてこられている。

過去を持って生きているのではなく、今を見つめるのが下手なだけなのではないかという気もしていて、これは逃避とどう違うのだろう、でも逃避ではないよね、ないはず。

 

201116追記:書き終わったら引こうと思ったのにまだ「現象」と引いていないのは、これは書き終わっていないから。変に硬い文章で脈絡もないから書き足す興味を失ってしまったけれど、冷えてゆく文字は哀しいので落としてゆく。