産む月

 

うみがめの産卵に二度喩えられた。大地のものにはなれない肉、あなたの落とす命は肉にあらずの可能性がと言う。

 

感情は受肉する。

肉体は感情の器であり、アンテナのようなものだ。肉に落ちた感情を響かせるサウンドホールが肉体で、その音響の塩梅がひとによってそれぞれ違うし好みもあるねという話。肉体が割れるめいっぱいまで大音量であらゆる感情を味わい尽くすのがきっとわたしのわざ(ワザと読むかゴウと読むかみたいな問題はあるけれど)で、これを濃縮還元しないときっと煮詰まって死ぬ。

「どうしてそんなににんげんであろうとしたの」と尋ねようとして、問いの立て方がそもそも違うと思い直した。にんげんがプリミティブな生き物であることをよくよく知っていたんだね。言い淀んで言葉を探して、ややあってから「そういうにんげんではない」と言った。そう、そうだよ。にんげんにもたくさん種類があった。そういうにんげんではない。ああ、正しい。

 

とにかくこの身体をめいっぱい使って、わたしはもっと楽しんで、苦しんで、喜んで、哀しんで、怒って、のたうち回ってやるしかない。澄まして器用になんてやっていけないことを認めて諦めよう、この肉がある限りわたしは助からない。でも肉を失ってはどんな甲斐もない。助けを呼ぶために生きてない、楽するために生きてない。自身を最高の泥船として向こう暗い水をゆく。そしてふやけて泥濘に落ちたとき、絡みあう肉と感情を眺めながらその川を渡り切るのだ。雑味のない思念体として、それはもう無感情に。

 

感情は受肉した、そしてここで生きている。今日は天気が良くて、なのに厚着だから泣きたいです。今日の気分で一色選ぶなら淡いオレンジ。今そう思ったためにそうなった。気まぐれを永遠にする魔法を掛けるブリザードフラワー。ねえ吐いて、吐くとこ見せてよ。笑って中指を喉に突っ込んでさあ、わたしのためにそうしてよ。甘えてる、甘えるのって楽することとは違うよね。編んだ砂糖を広げて見せて、ちゃんと綿菓子になれた?