温厚なにんげんであるところの


わたしが乱暴な神様だったら、ここで隕石落としてみたりとか突然急な温暖化起こしてみたりとかしちゃうと思う、この疫病騒ぎとは関係のない、世界を覆う生命にはどうにもできないトリックスターのような第三の選択を強制的に突きつけて鮮やかに終わらせてしまうだろう。ああ温厚なにんげんでよかった、わたしの神様はこれまで何回も惨殺されている。

 

努めて誠実にエイプリルフールを過ごしたはいいものの、不誠実なにんげんが慣れないことをすると障りが大きい。やっぱり食事は摂れないし血は流れ続けているのでふらふらで、加えてなんとなく発熱してしまうし、でも体調不良はその辺の生き物よりよっぽど身近だから余裕の顔して、痛む気のする節々を楽しんでいる。身体の不思議な仕組みに興味がある、いつか自分を三枚におろしたい、そのとき一緒に解体される神もいるはずだ、それを酷い目にあわせたい。

 

先程からずっと、魚になりたいな、と考えている。ゆらゆら揺れるベタの尾が恋しい。小さな水のなかで王様みたいに振る舞う彼ら、当然触れることはできない。彼らの尾にしか埋められないものがあるような気がしている。魚になりたいな、自分に尾鰭がついていたらいいのに、小さな水のなかで腐って死ぬまで何も知らずに美しく。何も知らない子どもがとぼけ顔でお湯を注ぐワイングラス。
髪を乾かすのを怠惰する数分、この数分で髪は大きく傷むのだそうだ。この数分が、強いて言えばいちばん魚に近い気がする。このまま洗面台のそばの床で力尽きて眠りたい。しかしながらわたしは温厚なにんげんであるので、身体を起こしてまた髪を乾かし始める必要がある。

 

目覚め即椿の花。

明日が誕生日だという友人と電話をした。もし家の中に閉じこもる必要が生じたらギターの練習をしようなどと嘯く。
1/24くらいの時間、心臓が好き勝手ビート刻むので、その間精神と肉体の同期を切った。
どうにもならないので珍しく聖書を開いてみる。開いたところはヨブ記

 

「わたしの魂は生きることをいとう。嘆きに身をゆだね、悩み嘆いて語ろう。」10章1節


「なぜ、わたしを母の胎から引き出したのですか。わたしなど、だれの目にも止まらぬうちに死んでしまえばよかったものを。あたかも存在しなかったかのように母の胎から墓へと運ばれていればよかったのに。」10章18-19節


「どうして、人が清くありえよう。どうして、女から生まれた者が正しくありえよう」15章14節


「いつまで言葉の罠の掛け合いをしているのか。まず理解せよ、それから話し合おうではないか。」18章2節

 

 

また陰惨な部分を開いてしまったものである、詩編箴言を冷やかすつもりだったのに。わたしが信じるのはわたしの神(複数回惨殺済)で、ヨブと同じ神ではない、そもそもわたしに彼のような信仰はない。深く信じるに値するのはわたしの目が選んだ神だけ、それは結局、つまり自分ではないのか。
みたいな、どうでもいいことを考えてもわたしは温厚なにんげんであることは自明なので、さっぱりと聖書を閉じる。聖書については、閉じるときの音がいい感じの書物、という認識でいる。

 

昨日のいちご大福はいちごだけ食べた、こういうズルはあんまり好きじゃない、食べておいて落ち込むのは勝手がすぎる。摘んだ餅は柔らかく伸びた。

 

慈しみはとこしえに。詩編136章