夜空に彩るネオン 赤と黄色の電車


本当なら関西にいるはずだった今、ぼうと過ごしていたら友人から連絡。
「今日なにしてる?誘うのも悪いんだけれどドライブ行かない?」、即着替え即移動即出発。ひとの少なく桜のきれいな広いところまで連れて行ってもらった。そういえば彼と真っ昼間から会うのは初めてだな、と太陽の下の背中を見ながら思った。阿鼻叫喚の昨今だから何ひとつ楽観してはいけない。楽観しないで。わたしはいつもキッと駅前広場のライオン像のように虚空を見ている、小難しい顔をしている。

4月に入ってから食事が摂れずにいたのだけれど、ライス抜きとはいえ1食食べられた。うどん2本とか豆腐半丁で箸を置いていた昨今からすると進歩だが、SAで買ったいちご大福はまだ手つかずで、お餅は刻一刻と固くなってゆく。何かの象徴にしてもいい、時間経過でこわばる総てのものごとの。かわいいピンク色、つぶあん。柔らかいうちに食べたい。


わたしは嘘をついていなくて、ただ本当のことを言っただけなのになんだかおかしなことになってしまった。誠実であろうとすると不誠実になってしまう、こういった二律背反には滅法弱く、じきに折れてしまうだろう。同じ言語で話すひとと、同じ言語で会話がしたいと、ただ強く願っている。

 

混乱に乗じて、あと食事ができて嬉しかったので、コンビニで缶チューハイを買って広場でぶらぶらしながら飲んでいた。6%でほろ酔い完成、そういえば今日の食事からはそこそこ時間が経っている気がする。混乱に混乱を重ねてどうする。この世界は総てわたし次第で、したがってつまり、全部ハッピーエンドへの伏線で布石。意地でも回収する、設定に振り回される未熟なミステリー作家のように。


数日前からベルリン・天使の詩が見たくて堪らない。好きな独白の箇所が頭から離れずにいるのだ。気に入った字幕をだらだらと書き起こした数少ない、ほとんど唯一の映画です。

「時が癒やす?でも時が病気だったら?」が取り沙汰されがちですが、昨今思い出すのはその直後のところ、「人生 祈りに身をかがめているのは平気 まなざしさえ同じなら」。
思えばいつも祈っている。まなざしさえ同じならどれだけよいだろう。強くはない肉体と精神を抱えて生きている、言葉さえ通じればどうにかなると信じている。言葉が通じることを信じている、あるいはこれは、祈りだろうか。