キットカットアンドペーストホットモットずっとぎゅっと!

 

01.

3年前の8月、ワシントン・ダレス国際空港で詩集を落とした。中学生になるかどうかくらいの頃に譲り受けて以来ずっと大切にしていた本で、旅行には必ず持って歩いていた。何かあってもこの1冊があればなんとかなる、心細くても鞄の中にこの本があると思えば安心できる本だった。ブックカバー代わりにパソコンのエラーコードか何かがぎっしり印刷された裏紙を使っていて、彼は「すごくいいね」とそれを褒めた。それも擦り切れてしまったから別の裏紙を使って補強し、更に頂き物の柔らかい布のブックカバーを掛けていた。たくさん持ち歩いたせいですっかり汚れたそのブックカバーごと、英語が公用語の国で、日本語の詩集を落としてしまった。気づいたときには酷く動揺して泣いた、昭和63年第6版のものだった。

当時の日記を読んでいたら哀しみが綴られていて読んでいて胸が苦しくなった。「言ったって戻ってこないのだから後悔とかやめて、不注意でしょ、子どもじゃないんだから」と言われて哀しむことさえ許されなかったこと。思い出しても哀しい。
その日記に「心臓みたいな本」と記述されているのを見つけて驚いた、「身体の一部を切り落とされて酷く苦しいのに誰も気づいていない」。

旅行から帰って、友人にペーパーバックの香りの香水をお土産に渡しながら、哀しかったのだという話を聞いてもらった。後日お礼の手紙と一緒に落とした詩集が入っていた、「君の手元に在るほうが正しい気がしたので」と。
彼女がその手紙をしたためていた頃、古本屋街によく出入りしていたわたしは店頭で100−200円くらいで売られていたのを見つけていて、奇しくも手元に2冊となった。友人に返してもよかったのに、そうしなかった。わたしはその友人にいつもひどく甘えている。

 

こんなことをつらつらと思い出したのは、先日その心臓を差し上げたから。欲しいのだと強く頼まれて、このひとにならあげてもいいかなと思ったのだ。いつかまた会いましょう、有機物同士だからきちんと土に還れるし、そのうちまた一緒になろうね。

 

 

02.

10年前の5月25日は満月だった、賭けてもいい。
一眼レフを持って、月を撮るべく家を出たのを覚えている。その写真は結局贈ることはなかったまま今に至っている。

彼が優しく笑うと嬉しくなって、切なくなる。彼の愛はひどいかたちをしていたし、彼自身がそれに無自覚だったから次々にひとを壊した。去るもの追わずみたいな顔をして拗ねても誰も彼を庇わない、そうやってひとりになってしまって。
それでもわたしは祝福を送りたい。先陣を切って壊れたわたしの祝福などまったく価値のないものだろう。それでも、そんなふうに冗談を言って笑うこの瞬間が、決して取り繕った嘘の産物ではないことはわかる。大変好ましく思う。だけどそのたびに、そのたびにわたしの汚れた血が疼き、足首に圧が浮かび上がる心地。あの階段で、彼もわたしもきっと若かった、そして今なお幼く拙い。ああ、楽器が弾けたらよかったのに。

 

 

03.

あの下品なひとの品のない言葉がもうずっと引っかかり続けているのではないかとふと思い当たった。それならわたしの為していることは復讐に近いことだったりもするのだろうか。もっともっと、それ以上に下品に振舞わなくてはならない。知らないひとに消費されたってちっとも平気で、ただ淡々と、ファック、と思う。他のひとに触れてくれるな、こんな風に平気でいられるひとはそう多くないはずだ、頭を使え、よく見ろ、清らかなにんげんにもう二度と触れるな。
下品な言葉を思い返している、わたしはその言葉ごと、彼らのことを嘲笑している。

 

 

04.

日曜日にはキリンジを聴きながら路地裏で本を読んでいた。キリンジを選んだのに深い意味はなく、そういえば弟脱退以後のアルバムをまだ聴いていなかったし、なんとなく聴き流すのにちょうどよいような気がしたからだ(弟の脱退から既に7年が経っていることに今気づいた)。

その流れで、結局ペイパードライヴァーズミュージックを聴きたくなったので火曜日はそれを聴きながら電車に乗り込んだ。やっぱり歌詞がいい、兄も弟も本当にいい、とにかく抜群。「風を撃て」なんかは好きでよく聴いていたけれど、「高架線」という言葉が歌詞に出てくることは今の今まで聞き流していた。

「野良の虹」なら「騙し絵みたいな顔をして笑わせて七曲がりなセックスを楽しんだものさ」、「雨を見くびるな」なら「あぁ、口づけで責めてみてもカエルの面にシャンパンか 舌を噛むなんて酷いなご挨拶じゃないか」。本当に抜群という言葉が似合う。どこを切り取っても良い。この一行!と思うような文章が延々に続く。

 

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優しくされることは乱暴にされることよりずっと怖いのに、たちが悪いことに乱暴と違って突き飛ばすことができない。体温より少し高めのゆるい粘度のお湯のテクスチャでまとわりついてくる。ギロチンで飛ぶ椿の潔さがなくて、ゆっくりと締め上げられる、息ができないことにも気づかずに笑ったまま死ぬ。それでは困る、鮮やかに血を散らしたい。

自分が欲深いことを知っている、ひとつ漏らしたら総て吐き出すまで喉の深くまで指を挿し入れ続けるだろう。喉を焼き、歯を溶かし、床を汚しながら吐き続ける。吐いたところでどうにもならない。欲しいものは欲しがれって言うけど、それはまったくその通り、ひとつも間違えていないしそうするべきだと思う、思うけどさ、欲しがることを致命的に欲していない頭がついているわけであって。
自律しろ、自律しろと口酸っぱく言われたし、今では自分が言う側だ。これもまたその通り。最初の一本に口をつけたがためにやめられない煙草のように、ひとたび自律を解いたら内臓がひっくり返るまでうるさい感情が止め処もなく、尖った水が濁流で。

きちんとくるみ整えて置いてあるものを解く必要はない。見えるように置いてあっても差し出せるような構造になっていない。ちょうど水槽のなかの魚のようなかたちをしている。水から出したら死んでしまう、そのくせ尾ひれをゆらゆらさせて、掬い上げてと言いたげな澄ました様子で色を滲ませている。たちの悪い性質だ、水の中でちぎってやりたい。鮮やかに散れ。